『リズと青い鳥』について(後編)+ 2018.6.7 追記

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:49

 本題前にまたもお知らせをひとつ。

 

 仙台発の月刊誌『りらく』の今6月号で弊店を取り上げて頂きましたー。特集「本の世界に遊ぶ 雨の日は図書館、ブックカフェへ」のページです。

 取材して下さった記者さん方に感謝です。ありがとうございました!

 

『りらく』第20巻11号(りらく編集部、プランニング・オフィス社、2018.5)

 

 閑話休題。

 

 映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想、その後編です。

 これで完結します。

 なお前編はこちら

 

 仙台ではMOVIX仙台でロングラン中のようです。おすすめ、、というかぜひ色んな方に見てほしいなぁ。

 先々にはきっと山田監督の代表作になってゆくだろうと思います。けれどそれにもましてアニメなり映画の歴史に何らかの足跡を残さずには済まさないんじゃないかしら、そう思わせられるくらいに傑作です。観ておいて損することはまずないはずです。

 

* 2018.6.7追記

 時おり愉しく拝見している千葉雅也さんのtwitterで、とても共感するご発言に出くわしました。拙文を書いている間ずっと感じていた問題意識がズバッと明晰に語られていたので、うぉっとつい唸ってしまいました。。

 

 例えば、、「解釈」の機能しないこの世界において「虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるか」。つまり、相互理解そのものはおろか、その不可能性さえもがもはや問題たりえない現代において、それでもなお関係を紡ぎうるとしたらどんな形がありうるのか。『リズ鳥』がその回答のひとつを示しているように思われたわけです。

 蛇足ながら、、たぶん土居伸彰さんが「私たち」という、理論的にはかなり緩い言葉でフォーカスしようとしている問題(特にご著書である『21世紀のアニメーションがわかる本』で説かれている)もこの辺りにあるのだろうと踏んでいるのですが、どうでしょうか。。

 

 せっかくなので、一連のtweetを引かせて頂きます。

 それはそうと、どうやら千葉さん新著をご準備なさっているようです。今後のお仕事がますます愉しみになりました。

 

 ポスト・トゥルースとは、一つの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えば、別の世界同士の争いだ。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。他者はすべて、別世界の住人である。(2018.6.5)

 

 ポスト・トゥルースとは、真理がわからなくなってしまった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりである。そうなると、バラバラの事実がぶつかり合うことになる。(同上)

 

 マルクス・ガブリエルの新しい実在論はおそらくこの状況を言っている。僕はガブリエル評価を改めようと思う。(同上)

 

 付言すれば、ドゥルーズ『意味の論理学』で言う深層とは、ポスト・トゥルースの状況だろう。(同上)

 

 階級闘争とは、世界の解釈の争いではない。異なる事実と事実の争いである。(同上)

 

 そうか、ドゥルーズ&ガタリの精神分析批判って、解釈をやめろ、ということなんだ。それはポスト・トゥルース化に他ならない。異なる諸事実が並立する状態に入ること。それが「分裂分析」なのか。(2018.6.6)

 

 そしてサントーム論に向かったラカン(松本卓也さんが紹介するような)も、ドゥルーズ&ガタリと同じくポスト・トゥルース的人間について考えたのだ、ということになる。(同上)

 

 『ラカニアン・レフト』が不満なのは、様々な政治闘争を接続する虚のトポスを活用しようという話になってるからで、それってファリックじゃないかという疑問を持つ。他の享楽側へと行ったら、諸々の闘争はバラバラになるはずで、それらを虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるかが問題なはず。(同上)

 

 

***

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

(承前)

 

3 斜交う誤配

 

 明察を得たみぞれは、全体練習の場で才能を遺憾なく爆発させます。ソロパートを圧倒的な表現力で奏でるのです。彼女なりに希美との相性を立証するための熱演でもありました。ところが、皮肉にも希美に対しては実力の差を突きつける結果を招きます。打ち拉がれる希美は途中で投げ出すわけにもゆかず、みぞれの音に追いすがるのが精一杯です。やっとの思いで吹き終えても、人目を忍んで席を外してしまいます。

 生物室 (★5) まで追いかけてきたみぞれが声をかけようとすると、希美は泣き腫らした目許を取り繕うかのように言い放ちます。「みぞれはずるいよ」。劣等感や虚栄心、憧憬など鬱積する本音が堰を切って捲し立てられます。

 みぞれももどかしさのあまり声を荒げずにいられません。吹奏楽部へ誘ってくれた事の始めにまで遡りながら、募る想いの丈を吐露します。楽器を続ける理由さえ、希美と一緒にいるためでしかないと言って退けるのです。挙げ句希美の胸へ飛び込むなり、畳みかけるように相手の「好き」な点を数え上げます。足音や髪、話し方、それから皆と仲良くできるところ等々。

 それに引き換え、希美は自分が勧誘したことすらよく覚えていません。あまつさえみぞれの抛る訴えは、どれ一つとして希美の琴線には触れません。クローズアップされた希美の瞳は、抱きつくみぞれの頭越しをただ虚ろに見つめるばかりです。さりとて耳に届いていないわけでもなく、間違いなく意識を傾けています。みぞれの言葉に応じて瞳が小刻みに震えるからです。

 なぜ希美の心が動かないのか。みぞれを宥めた後、ぽつりと洩らされる返答に一切が凝縮しています。「みぞれのオーボエが好き」。

 

 顧みればパート練習で場所を違えていても、みぞれの音が画面外から鳴るたびに必ず希美は耳を傾けていました。彼女は演奏そのものに惚れていたのです。だから逆にその敬慕する奏者から聞き出したかったのは、自分の音を認めてくれる証しだったに違いありません。「希美のフルートが好き」と。それなのに、みぞれが乱れ撃った数多の「好き」の中にはついに含まれていませんでした。希美にとっていわば無能宣告にほかなりません。先の実演に続き、みぞれは図らずもだめ押しを加えてしまった恰好になります。

 他方みぞれにとってもいわずもがな、希美の返答は必ずしもかけてほしかった言葉ではありません。むしろ正反対を意味します。希美は畢竟、みぞれ自身が望むようには丸ごと求めてくれるわけではないのですから。

 二人の「好き」は絶望的なまでにすれ違い、伝えたかった真意は互いに何ひとつ届きません。けれど一連のやりとりは、彼女らの思惑から外れて予想外の宛先を切り拓きます。

 

 まず希美が一方的に話を打ち切り、お茶を濁すように独り廊下へ駆け出します。すると歩いているうちに、初めてみぞれに呼びかけたときの情景が甦ってきます (★6) 。そして、何ごとかを仕切り直すかのように深く長い吐息をつくのです。上達したみぞれに気をとられるあまり、楽器を吹いていなかった素の彼女を忘れていたのでしょうか。それに気づきあたかも初心に返れたかのようなモンタージュです。一から関係を再構築してゆこうと、吹っ切れたような表情を見せてシーンが変わります。幕切れには「みぞれのオーボエを支えるから」と宣言することにもなります。

 みぞれも最終的には、たとえ独り音大へ進学してもオーボエを続けると断言します。オーボエは当初、希美と離れないためにこそ必要とされていました。それがかえって、希美から自立するための媒介を担い始めるのです。希美が「全て」だったかつてのみぞれは、さしずめ母子未分化な赤ん坊のような存在でした (★7) 。オーボエはさながら、乳房のように母たる希美と分かちがたい閉域を作っていました。そこへ例の希美の一言が亀裂をもたらしたのです。みぞれは言外の含みを汲みとれないまま、字義通りに受けとります。希美が「好き」なのは私の吹く楽器であって私ではない。つまり私は希美と一つになれないし、オーボエと希美は一緒くたにはできないのだと。オーボエは希美の手から離れ、その価値は彼女が示唆を与えたものという象徴的な意味合いへ切り下げられます (★8) 。反面オーボエそのものがもつポテンシャルを開示することにも繋がります。希美との今ここに呪縛されていたみぞれの時間が、オーボエの放たれた未来へと動き出すのです。

 

 交わされた言葉は話し手の意図から逸れて、別の何ごとかを聞き手に届けてしまいます。そして実は聞き手もまた、自分が受けとった何ごとかを未だ明晰には呑み込めていません。初対面の記憶やオーボエの存在は、未規定なまま単に突出しているだけです。それにも拘らず、彼女らは触発されるがまま踏みだします。意味の理解を差しおいて、言葉の働きかけに身を開くのです。たとえボタンを掛け違っていてもかえってそこから生まれる別の作用を尊重し、いっそ未来への布石に転じてしまうこと。

 もし意味に囚われていたなら、何もかもが従来の執心へ回収されてしまい、関係は泥沼化するほかなかったに違いありません。リズの理解に苦しみ、手詰まりに陥っていたみぞれの姿が思い起こされます。しかし二人は既に、視点の転換を通して事態を相対化する経験を積んでいます。既定の意味に拘る謂れはもはやありません。膠着していた関係が定かならぬ未来へ向けて解きほぐれてゆきます。おそらく初めて彼女らは、過去に縛られることなく相手を自由な個として見出だします。先述しておいた最後のツーショットはその成果を讃えて余りあるでしょう。

 さりとてみぞれにとって希美が特別であることは依然変わりませんし、希美にしてもそれに応えられるよう趣味嗜好が変わったわけではありません。まして「特別」の意味を心から理解できる余地はまずなさそうです。彼女らはきっと、まかり間違っても愛の成就なり破局など意味を共有しうる間柄には至らないでしょう。ちぐはぐな応酬を繰り返しては誤配を重ね、斜交う関係をどこまでも続けてゆくのではないでしょうか。全一とは無縁な絶対的な断片なのです (★9) (了)

 

 

【注】

 

 5

 人づきあいの不得手なみぞれにとって、生物室は独り静かに佇める聖域です。飼育されているフグによく餌をやるシーンは、人里離れて動物を餌づけするリズの森さえ彷彿とさせます。けれど他方では、心地よいからこそ閉じ籠ったままの現状を招いてもいます。無自覚ながら自由が封じられているのです。生物室はまるで鳥にとっての籠さながらです。

 いうまでもなくこの両義性は、みぞれが抱えこむダブルバインドのメタファーです。希美に執着するあまり彼女との関係、そして演奏さえも膠着させてしまうのですから。ゆえに、みぞれの転機は決まってこの特権的なトポスと連関して生じます。

 ひとつめは「視点の転換」です。くだんの教員がここを探し当ててくれたお陰で起こりえました。彼女は本編中初めての生物室への侵入者でもあります。

 もうひとつはこれから拙文で論じることになる、籠の解錠に相当する出来事です。希美と繰り広げる応酬が、やがてみぞれの自立を帰結します。じつは、希美が生物室を訪ねたのもこれが初めてです。かねてフグに餌をやってみたいと調子を合わせていた割に、その後一向に素振りすら見せなかった彼女だけに事の重大さは推して知るべしです。

 

 なお、籠のメタファーが当てはまるのは、あながち生物室だけではありません。音楽室や普段づかいの教室それから廊下も含めて、学校全体がさも鳥籠であるかのように演出が凝らされています。というのもサッシがグリッドに仕切る向こう側を、あまりにも頻繁に鳥たちが飛び回るからです。明るい外を自在に滑空する鳥は、薄暗い屋内の閉鎖性を逆照射します。校舎を覆うサッシはあたかも籠の網の目です。

 学校という特殊な閉域がまざまざと縁どられることで、かえってその外部が痛切に意識させられます。生徒らの行く末です。遅かれ早かれ旅立たねばならないものの、杳として見透しの利かない未来が本作の裏側に貼り付いています。

 

 ところで、結末を除きただ一度きりカメラが校外へはみだすシーンがあります。みぞれに張り合ってつい音大受験を宣言してしまった希美が、逡巡しはじめる矢先のことです。夕暮れに彼女は独り小高い丘へ赴き、町を一望するのです。後ろ姿を引きで抜くカメラはそこが東屋(すなわち籠です)であることを明かします。

 校舎を抜け出てもなお希美は籠の中の鳥でしかありません。彼女固有の痛ましさが滲みでているシーンです。なぜなら、希美の逃げ場が学校のどこにも存在しない事実を露呈しているからです。ひょっとしたら生物室を保険にもつみぞれの方が、むしろ恵まれているとさえ言えるかもしれません。

 希美は人づきあいをそつなくこなしているかに見えて、実は素顔を曝せない質なのです。みぞれに対するわだかまりを鬱積させていた希美の姿が偲ばれます。

 

6

 このシーンは色を飛ばして、現実の絵柄と差別化されています。かたや冒頭のみぞれによる同じ過去の想起でも、やはり明度が高めに設定されていました。しかしタッチが異なります。先行のフラッシュバックでは絵本の朗読とモンタージュされていたせいか、よりファンタジー寄りにデフォルメされていました。もしかしたら、みぞれの方が思い出に夢を抱いていることの証左なのかもしれません。おまけに台詞も若干違います。希美の記憶では「帰宅部」という露骨な表現が飛び出します。

 

7

 みぞれの幼児性はしきりと髪に触れる習癖によく表れています。何かしら感情が動くときだけでなく、手持ち無沙汰の折にも決まって髪を手で撫でるように梳きます。

 興味深いのは、はじめて希美に声を荒げる際には髪ではなくスカートを両手で強く握っていた点です。強いていえば幼児性からの離脱、少なくとも何らかの異変が見てとれます。

 

 もう一点、冒頭で校門から音楽室へ向かう途中、先をゆく希美が下駄箱の角にすっと手を沿わせるカットがあります。後に続くみぞれもさり気なく同じ角に手を沿わせて先を急ぎます。一瞬の仕草とはいえ、希美を慕う気持ちとあわせて接触に偏執する習癖まで仄めかす秀逸な演出でした。

 

8

 ラカン派精神分析の術語でいえば「疎外」と「分離」による二段階の去勢が執行されているわけです。先述した視点の転換はここでの「疎外」の雛形になっていました。そしてオーボエは「対象a」です。その導く先には、より高度に抽象的な音楽の世界とともに業界の道理や秩序さえもが待ち構えているでしょう。

 その伝でいけば、一面ではみぞれは象徴界へ参入し、希美は軽い神経症から癒えたとも言い直せます。しかし肝心なのは、それにも拘らず逸脱を余儀なく繰り返す二人の軌跡です。言葉に別な作用を見出だしては関係を更新し続ける応酬は、精神分析というよりかフェリックス・ガタリの唱えていた「スキゾ分析」に近しいのかもしれません。

 

9

 少女らの絶対的な断片性を「実在的対象」として捉えれば、グレアム・ハーマンの唱える「オブジェクト指向実在論」の絵解きとして見立てられるかもしれません。例えば二人は互いに「脱去」しあっており、絶対に分かりあえない。にも拘らず初対面の記憶やオーボエなど「感覚的対象」を通して魅惑され、間接的に関係(代替因果)を築ける、とか。全然関係ないけれど、ハーマンってアニメを見たりするのかしら。。 

『リズと青い鳥』について(前編)

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:06

 本題前にお知らせをふたつ。

 

 1ヵ月余りにわたって開催した三人展「本当に思い出せなくなる前に」が、お陰さまでおととい無事に終了いたしました。

 ご覧下さった方々にあらためて感謝を。ありがとうございました!

 そして、作家さん方にもお礼と労いを。おつかれさまでした!

 久しぶりに店内を目いっぱい使った展示だったせいもあり、会期中はいつにもまして愉しく過ごさせて頂いたのでした。。

 

 それから、、佐藤ジュンコさんがまたまたまんがを上梓なさいましたー。

 仙台を中心に、彼女が食べ歩き散らかしてきたドキュメントです。

 弊店もちょこっと登場します。

 店頭で販売してますので、よかったらお手にとってご覧くださいまし〜。

 

『佐藤ジュンコのおなか福福日記』ミシマ社、2018)¥1,500+税

 

 閑話休題。

 

 予告どおり映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想をまとめておきたいと思います。

 最後に観てからもう1ヵ月も経っのに、鳥がまだ頭の周りをぐるぐる旋回しています。やばいです。。

 

 やや長くなったので、2回にわけて掲載します。

 なお後編はこちら

 

 本作は仙台でもまだロングラン中みたい。MOVIX仙台です。おすすめですー!

***

 

 0 はじめに

 

 

 ある高校の吹奏楽部を舞台にしたテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』(2015-16放送)という群像劇のスピンオフ作品です。物語の時系列としてはテレビシリーズの延長にあたりますが、監督もキャラデザも刷新されておよそ独立した作品に仕上がっています。

 テレビシリーズでは巧みな構成と細やかなキャラクター設定が駆使され、複雑な人間関係が編まれていました。しかも部員らの相当微妙な内面にまで踏み込みながら、決して物語を停滞させることがありません。コンクールへ直進する推力を支えに、数多のサブプロットを語り切るのです。いくつもの支流を抱えては奔流する大河のような作品でした。

 一方『リズ鳥』はというと、さしずめ水たまりのように小さく狭い間柄に的を絞ります。数十名いる部員のうちたった二人の、本来なら端役に過ぎなかった少女どうしの交友です。そのうえ筋肉のわずかな強ばりや目許のかすかな震えなど、より一層ディテールへ寄り添うのです。明快なフルショットの手合いは極力避けられます。遠目には凪いで見えるやりとりの端々に、小波のような感情の揺らぎが炙り出されます。その多様なニュアンスを丹念に積み上げてゆき、絶妙に移ろう関係性を階調豊かに浮かび上がらせるのです。

 ともあれシナリオの比重が大きかったテレビシリーズからは一転し、『リズ鳥』ではディテールの描写(音や台詞の間合いも含めて)とそのモンタージュへ力点を移すのです。これはナレーションの撤廃にも顕著です。テレビシリーズでは、主人公久美子による回想口調が物語にサスペンス調の安定したパースペクティブを開いていました。ところが、モノローグの類いを一掃する『リズ鳥』には見通しよい観点がありません。あまつさえ少女らは口数が少ない。内気なみぞれはいうに及ばず、快活な希美も気風よいが故に余計なことを口にしません。俄然ショット一つひとつが際立ち、画面への注視が促されます。

 もとより、ディテールの作画はテレビシリーズでも急所のひとつでした。まして山田監督といえばちょっとした仕草、わけても足の演技の手練です。ただ従来まではいくら優れた演出だろうと、あくまでシーンに厚みをつけ足す手段でしかありませんでした。それが『リズ鳥』では、断片であるそのこと自体が主題のアレゴリーたりえています。

 ひとつには才能や佇まいなどキャラクターの一面に過ぎないまさに断片が、相手を翻弄する重要な役を担っているからです。けれどそのためばかりでなく、そもそも彼女らじしんが相互理解も叶わずめいめい断片に留まるほかない存在だからでもあります。理解しあうことのないまま、それでもなお新たに関係を紡いでゆく姿を示して作品は幕を閉じます。断片たることは、否応なく孤絶を意味すると同時に関係を結ぶ条件でもあるわけです(★1)。いうまでもなくこれは、映画そのものにおけるカットとモンタージュの謂であり、なおかつそれらを懸命に追う観者の含みでもあります。

 本作の要がディテールにあることは疑う余地がありません。さりとて、単にその精妙さを愛でるだけでは片手落ちを免れません。美しさに見とれて、断片がもつポテンシャルを遺棄してしまうなんてあまりに惜しい。その過剰さは美の予定調和に収めきれるものでは到底ないはずです。

 以上を踏まえたうえで、これからはあえて愚直にシナリオを追ってゆくことにします。まずは主題上の断片性を確認しておくに如くはないでしょうから。もとより、あまりにディテールが豊か過ぎてアプローチを絞るのに難儀だからでもありますが。。

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

 

1 冒頭と結末のコントラスト

 

 本編の幕は、みぞれと希美の登校するシーンによって上がります(★2)。そして幾日かの練習風景を跨いだ後、やはり彼女らが下校するさなか下ろされます。数週間にわたると思われる経過が、まるで一日の顛末さながらに構成されています。ミニマムに仮構された時空は余計なものごとのつけいる隙を断ち、移ろいゆく二人の軌跡を鋭く浮き彫りにします。冒頭と結末がなすコントラストは、その推移をひときわ鮮やかに示してくれます。

 かたや、早朝に校門で待ち受けるているのはみぞれです。遅れて希美が合流し音楽室へ向かいます。他方、放課後の校門には希美が控えています。本編を挟んで二人の位置が反転するのです。いったい何があったのでしょうか。

 歩調は相変わらずです。何時いかなるときも希美が颯爽と先陣を切り、みぞれが頼りなげに遅れをとります。会話のちぐはぐさも本編の前後で大差ありません。二人の個性は終始変わらぬままです。

 カメラワークから察するに、変化が窺えるのは二人の関係です。冒頭で著しかったのは、希美の一挙手一投足に目を奪われるみぞれの主観ショットでした。対して結末を飾るのは、歩行中の二人を初めて正面から押さえたバストショットです。望遠レンズの圧縮効果によって手前と奥が詰められ、二人を画面に斉しく収めます。

 当初一方的に過ぎた執着が本編を経て氷解し、対等な友情に立ち至れたかのような赴きです。おまけにカメラが校外へ踏みだすシーンはこれを措いておよそ皆無であり、開放感がいやまし強調されています。

 

 

2 関係の交換可能性

 

 関係に変化が生じた発端は『リズと青い鳥』という絵本です。リズという孤独な少女のもとへ、彼女を案じた鳥が女の子に化けて現れるという筋書きです。

 これに取材した同名の楽曲が、来るコンクールの自由曲に選ばれます。そして目玉の第三楽章では、二人のソロが懸け合うことになるのです。しかも語られる内容が、彼女らの因縁とあまりに重なり、絵本は少女らを写す鏡の役を担いだします。

 当初は過去と性格に符合することから、何ら疑いなくみぞれがリズに、希美が鳥に自らを投影していました。

 というのも内気で孤立していたかつてのみぞれに、思いがけず声をかけてくれたのが希美だったからです。入部の勧誘に過ぎなかったはずのこの一件は、しかしみぞれにとっては恩寵にほかなりませんでした。爾来、希美はみぞれの「全て」になります。

 ところが、中盤を過ぎるなり投影先が覆ります。こんどは現状と能力に照らして、みぞれが鳥を、希美がリズを再発見するのです。

 絵本の佳境では、リズが未練を押し殺して鳥に旅立ちを迫ります。というのも一緒に暮らす幸せが、その想いとは裏腹に鳥を地上に縛りつけることにしかならないと悟ったからです。

 希美の喪失を何より恐れるみぞれには、これが受け容れられません。リズの理解に躓くみぞれは、演奏すらままならなくなります。そこで見かねた教員が、視点の転換を促します。するとリズとの同一化を弛めた途端、みぞれはたちまち事態の明察に達します。リズの提案は、鳥にとってもきっと堪えがたかったはず。けれどリズが願うのなら、それに応えることこそ愛に報いることなのではないか。鳥が涙をのんで決意する、その胸中をしっかり汲みとるのです。

 かたや希美はというと、次第にみぞれに対するわだかまりを隠しきれなくなります。みぞれに期待を寄せる教員が決定的でした(★3)。みぞれには音大を手厚く勧める一方、希美には人並みな対応しかしてくれないのです。これを機に今までは無自覚だったものの、ずっと複雑な澱を溜め込んでいたことが痛感されます。羨望に嫉妬、屈辱感。相手に執着していたのは自分の方ではないか。リズの姿が他人事ではなくなります。なぜなら、実際に別れを切りだす前のリズも鳥に執心するあまり葛藤を抱えこんでいたからです。

 二人はともに、新たな視点を手に入れ認識を改めます。さりとて、現実に何かを為し遂げたわけでは無論ありません。ただ観念的に関係を相対化できたに過ぎません。

 そもそもみぞれの場合、鳥の気持ちはさておきリズについては単に黙殺しただけです。それどころか自分の判断を相手に委ねている点からして、希美に依存する体質は変わらぬままです。

 希美も同様に、才能の格差を身にしみて思い知ったわけではありません。まして、克服なんてしようがありません。

 それに、以前の視点が無効になる謂れも殊更ありません。認識の上だけでなら、視点の転換は難なくこなせます。要は、みぞれも希美も互いにリズでありかつ鳥でもありうるのです(★4)。肝心なのは正しい自己像を探し当てて確定することではなく、確定的に思われた自己が他でもありうるという可能性です。この有余が、やり直しの利かない現実を受けとめる素地を整えます。

 ちなみに、もし有余なしに現実と直面する羽目になったとしたら、相応のリスクを伴うはずです。例えばテレビシリーズでは、希美がみぞれの前から忽然と姿を消した結果みぞれはノイローゼに陥ってしまったのでした。(つづく)

 

 

【注】

 

1

 本編の冒頭と結末にはぞれぞれ「disjoint」と「disjoint」という単語が、カリグラフィー(所謂シネカリ)風にアニメイトして挿入されています。「disjoint」とは授業のシーンでもさりげなく触れられる通り「互いに素」の意味です。おそらく含意として「ばらばらになる」などが込められていそうです。接頭辞が掻き消される後者であれば「つながる」でしょうか。いずれにしろ「断片」の境位そのものを示していると考えられます。

 

 ちなみに、カリグラフィーの技法といえばノーマン・マクラレンの『線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)がよく参照されます。当該箇所もご多分にもれず、まず間違いなく彼へのオマージュです。なにしろ『即興詩』のモチーフからして赤と青の二羽の鳥なのですから(厳密には赤と緑。補色対比のためかと考えられる)。拙文では後に論じるとおり『リズ鳥』もまた青い鳥と赤い少女の物語なのです。

 

 

左から線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)、『隣人(Neighbours)』(1952)

 

 じつは山田さんの前々作『たまこラブストーリー』(2014)のエンディングもやはりマクラレンの『隣人(Neighbours)』(1952)を換骨奪胎したパロディになっていました。後者は冷戦下における米ソの対立わけても朝鮮半島の情勢を、ピクシレーションを駆使した滑稽なモーションによってブラックユーモアに仕立てた作品です。彼女はこれを、ライバル店どうしの子どもたちが繰り広げる恋物語に転用するのです。『隣人』でお隣との媒介役を果たしていた花が、『たまこ』では林檎へ置き換えられてさらにフェイクとリアルの2種に分裂させられます。

 ともあれ、山田さんがマクラレンなりNFB(カナダ国立映画制作庁)、もしくは実験アニメーションの系譜に相応の関心をお持ちなのは作品からひしひしと伝わってきます。それと日本の所謂アニメとの関連をどんな風に捉えていらっしゃるのか興味が尽きません。

 

2

 本作は直ちには本編へ入らず、作中絵本の導入部から始まります。ある少女が動物たちにパンを分け与えているところへ、青い鳥が舞いおりてはすぐさま飛び立ちます。彼らにとっては初めての出会いです。これはみぞれと希美の起源を象徴するとともに、直後に継がれる本編冒頭の雛形にもなっています。鳥を見上げる少女の仕草も含め、本編でもう一度反復されるのです。みぞれの待つ校門に希美が落ちあい、然るのち希美の拾い上げた青い羽根をみぞれが見上げます。作中鍵となる図式への巧みな誘導が見てとれます。不動の(待つ)存在=見上げる=リズ=みぞれ/動く(訪れては去る)存在=見られる=鳥=希美。

 

 本編自体の滑りだしは、歩くみぞれのローファーを真横から追う長回しです。まさに「断片」によって幕が開きます。そしてカットをいくつか挟み、おもむろに希美の靴音と劇判が絡み合いだしては束の間のミュージカルが浮かび上がります。歩調の映画であることがはっきり印象づけられるシーンです。

 

 ところで同じ歩行をモチーフにしたアニメに、ライアン・ラーキンの『Walking』(1968)があります。作画と音作りを擦りあわせながら同時に進行した点でも符合します。ところが歩行そのものの捉え方は対蹠的です。

 

『Walking』(1968)

 

 序盤しばらくは立ったままの雑沓が大半を占め、カットバックで彼らの視線の先に歩行者がひとり示されます。ベランダから俯瞰された大写しの全身像です。パースに沿って視線が自ずと足もとへ向かいます。さりとてこの後も足を強調こそすれ、「断片」として切りだすことはまずありません。あくまで全身運動として描かれます。

 加えて不調和なリズムが前景化することもありません。次第にアングルを変えながらペースの様々な歩行者が画面を駆け巡ります。けれど構図が的確なせいか、リズムの差異が全体へ溶けこんで見えるのです。強いていうなら、ラーキンは数多の通行人を観察しては消化して一つの合奏に仕立てています。それに引き換え『リズ鳥』の照準は、歩行の不調和へ向けられています。

 

 あるいは足を主題化したアニメといえば、新海誠さんの『言の葉の庭』(2013)が記憶にも新しいでしょうか。男子高校生と女性教師が互いに「自分の足で歩けるようになる」までの、要は自立するまでのお話です。逆にいうと「歩けるようになる」以前の顛末なので、そもそも歩行中のカットが少ないうえに並んで歩くシーンさえなかった気がします。

 

『言の葉の庭』(2013)

 

 さりとて貴重な足もとのショットを顧みるにつけ、水溜りを踏んだり光が射したり環境を反映する役を割り振られていたのが印象的です。もしくは佳境で足のサイズを測ったり、裸足のまま駆け出したりします。いずれにしろシーンの下支えに徹するのです。かたや『リズ鳥』の場合は下支えもちゃんと果たすとはいえ、それにもまして歩行そのものが「断片」として突出してきます。

 これに限らず、新海さんと山田さんはあらゆる点において対称的です。前者は広角レンズで目いっぱい光を取りこんでコントラストを強調します。キャラクターの心情なり境遇を広大な風景に託すためです。

 対して後者は望遠レンズで若干アンダー気味にしっとりした絵作りを心がけます。静かな風景と動くキャラクターに絶妙な間を保ち、相対的に風景を自立させるのです。なおかつ画角の狭さはキャラクターの視野の狭さに重ねられます。または疑似ドキュメンタリーのようなあざとさは避けながら、視野をふわふわ揺らせたりもします。

 

3

 教員の件とは別に、希美を揺さぶるサブプロットがもうひとつ描かれています。みぞれとその後輩による交流です。休日に遊ぼうと希美がみぞれを誘うシーンが2回あり、そのつど他に呼びたい人がいるか確認します。最初はいないと返答したみぞれが、次の機会には後輩も誘いたいと申しでるのです。

 希美を正面から逆光気味に押さえるショットに、画面外から当の申告が被せられます。不意に画面手前を他の生徒が横切り、希美の姿が一瞬隠されてすぐ現れます。すると屈託なかったはずの表情に微妙なニュアンスが差しているのです。みぞれに対する保護意識なのか独占欲なのか、いずれにしろ無意識の出し抜けな漏洩が澱の存在をはっきり告げ知らせてくれます。

 

 ところで、山田さんは割合ジャンプカットを多用しますが、カットを繋ぐ素朴なモンタージュにはよらず、今回のように一連の演技として成立させるのは初めてのような気がします。周囲が変わらないなか希美の心境だけが急変するシーンなので、風景の連続性と心境の不連続を両立させるための工夫なのでしょう。かりに素朴なジャンプカットを採用していたなら、後者ばかりが迫りだし前者が犠牲となって事前と事後の比較に過ぎない薄っぺらな書き割りにしかならなかったのではないでしょうか。連続する風景こそが急変する心境の孤絶を際立たせ、重みのある表現を結実させています。

 

 ちなみに、みぞれと後輩のサブプロットは希美を動揺させる返す刀で、メインプロットの二人をも照らしだします。というのもみぞれの無愛想にもめげず健気にアプローチを繰り返す後輩の姿は、とりもなおさず希美への叶わぬ想いを秘めるみぞれ自身にほかならないからです。やがて親しくなった暁に二人きりでオーボエを奏でる光景は、みぞれが思い描く希美との理想像にほかなりません。そのうえ次第に深まる後輩との絆は、図らずも新たな人間関係を形成する雛形にもなっています。自立の助走さえ兼ねているのです。

 特筆すべきは、あるサブプロットがメインプロットへ絡んでゆく経路の重層具合です。この手のサブプロットがいくつも仕組まれています。図書室でのやりとりや部長と副部長のかけ合い、あるいは絵本の少女と鳥等々。どれもシーンの密度が異常に高いのです。

 

4

 交換可能性の暗示は、じつは既に冒頭からディテールのそこかしこに鏤められていました。

 先述した青い羽根は拾われるなりすぐさまみぞれに渡り、以後ずっと彼女が携えることになります。かたや絵本では、リズが髪飾りにと鳥に赤い木の実を挿してやります。すなわち、与える者=希美=リズ/与えられる者=みぞれ=鳥という図式が浮かぶのです。そもそも担当パートからして希美のフルート=リズ/みぞれのオーボエ=鳥です。

 それなのに、作中の二人が逸早く感情移入する先は逆さまでした。希美=鳥/みぞれ=リズという具合に。

 

 もしくは色の象徴系によれば、現実と絵本の照応のみならずリズと鳥、そしてみぞれと希美の取り替えすら仄めかされます。青い鳥に赤い木の実を挿すというのは、端的にリズの赤と鳥の青の混在を意味します。というのもリズが赤いスカートを穿いているからです。あるいは青い羽根を所有するみぞれが赤茶の瞳なのに対して、希美は赤い腕時計を身につけており瞳は青みを帯びています。

 さらに終盤になるとよりいっそう露骨なイメージカットが現れます。画面中央に水気を含んだ赤と青が打たれ、次第にじわじわ浸透しあうのです。

 要所に登場するデカルコマニーのイメージカットもこの系列に連ねられるでしょうか。インクを垂らした紙を一度折り、左右対称な鳥の模様を生みだします。これが羽ばたくようにアニメイトされるのです。一羽の中に左右二つのイメージが折りたたまれているわけです。力加減によって生じる微妙な対称性の崩れが効果を上げています。

 左右反転といえば、二人の転機に決まって挿入されるパラレルモンタージュ(正確にはクロスカッティングとマルチスクリーンの合わせ技)も忘れられません。場所を違えた少女らを同時並行で対照しながら描くのです。しかも転機が訪れるのは2回きりなので、この手法を使ったシーン自体がデカルコマニーさながらの対称的な構成に仕立てられていました(この徹底のありようったら。。)。

 なお最後のパラレルモンタージュには、左右に揺れるみぞれの長い髪がそっと挟まれていました。たぶん本編中唯一のカットです。

 本来なら、振り子状のモーションは快活な希美にこそ似つかわしいはずです。例えば冒頭ではみぞれの主観ショットが、希美の弾むポニーテールへ引きこまれるように食い入っていました。かたやみぞれはというと、髪も含め全身が膨張したり萎縮する漸次的なモーションによって特徴づけられます。そんな彼女が二つの転機を越え自立に向かうまさにそのさなかの歩行シーンで、希美の快活さが乗り移ったかのようなモーションを見せるのです。あまりにさり気ないカットですが、二人の交換可能性を如実に示しています(不意をつかれてほろっとしてしまいした)。  

志賀理江子『ブラインドデート 展覧会』取り扱い開始!!

  • 2018.05.09 Wednesday
  • 14:21

 『河北新報』の夕刊で、弊店の小品展を紹介して頂きました。きのう5/8(火)付です。記者さん、門眞さん、ありがとうございましたー。

 

 画像は門眞さんよりご提供頂きました。重ねて多謝!

 

 先日、市内にあるカフェショップへ、展覧会を拝見しに伺いました。ガラス作家である後藤洋平さんと、おもに鏡を使ってインスタレーションを手がける平尾菜美さんによる二人展です。

 じつは、いま弊店でドローイングを展示して下さっている門眞妙さんが企画に携わっています。

 

 入室するとすぐ、中央に据えられたお二人の共作が出迎えてくれます。下手には後藤さんのガラス、上手には鏡や生地を用いた、平尾さんのインストラクション・アートめいた作品が配されていました。

 部屋が北向きのうえ窓が三方に大きく開け、おまけに当日は薄曇りのお昼だったものだから、安定した光が柔らかに降り注ぎ、作品たちが環境にしっとり馴染んで見えました。とても品よい感じ。

 

 今回、鏡を組み込む作品は、平尾さんのみならず後藤さんも出品なさっていました。両者の扱い方を見比べると、傾向というか資質の違いが顕著に窺えておもしろかったです。

 

 かたや後藤さんは、ガラス板に小石をふたつ載せ、適度に間をあけたうえで下方に鏡を敷きます。他方、平尾さんは鏡の表面に「see eye」などミニマルな単語をあしらいます。

 前者は小石の裏を照らし、作品じしんが再帰的に内へ折り返す構造をもち、後者は観者の顔を映しだし、リフレクション(反射/反省)のダブルミーニングを外へ突きつけます。

 あるいは、前者が観者を惹きつけ没入を促すのに対し、後者は見られることよりも見返すこと、観者への働きかけが賭金になっています。

 

 ところが、いざ共作に目を向けると、後藤節が色濃いのに対して平野さんは鳴りを潜めてしまっているかに見受けられました。

 当の作品はというと、まず後藤さんがガラスコップを制作し、その表面に平尾さんの采配に従って漢字が施されたのだそう。「水」や「腕」など、「飲む」所作にまつわる漢字が、向きも大きさも様々に鏤められています。

 一字ごとてんでに散る漢字は、「飲む」というテーマを漠然と発散するばかりで、こちらに働きかけてくる気配がないのです。かえって、コップがもつ「飲む」ためのフォルムに追従しているようにしか見えませんでした。支持体の強さに屈しているというか。畢竟装飾以上には見えてこないとうか。

 ほかの鏡や生地の作品であれば、コップほどには支持体のフォルムが主張しないせいか、記された単語の観念が即物的な支持体から適度に自立して見えます。

 あるいは、彼女がインスピレーションを受けたという新国誠一だったなら、漢字の選択と布置のどこかにきっとアイロニーを忍ばせると思います。意味の多重化によって観念を強化し、支持体と拮抗させるわけです(ただ、平尾さんの持ち味は、どうやらニュートラルなことばを観者へじわじわ染み込ませる作用のようなので、アイロニーとは相性がよくないかもしれませんが)。

 

 個人的には、鏡をアクセサリーに仕立てるシリーズが俄然興味深かったです。アクセサリーってそもそも相手から見られるためのものなのに、逆に相手を映すばかりかよりによって見返すなんて!

 それに、そのフォルムが作家の輪郭のネガを象っているというアイデアもすばらしい。例えば、軽く握ってできる掌の虚の空間を縁取って鏡が成形されています。ヴォイドが視線を吸い込んでは、かつ弾き返す。かっこいい。

 

 この二人展はもう今週いっぱいまでです。未見の方はお急ぎを!

 あわせて同会場では、後藤、平尾両氏の作品集を出版なさっているアートブックレーベルDOOKSのポップアップショップも開かれています。仙台ではまとめて手にとれる機会はそうないはずです。あわせてぜひ!

 

 「檸檬水」

  後藤洋平平尾菜美

  2018.4.22.sun – 5.13.sun

  金・土・日・月のみ営業

  12:00 - 18:30

  design labo necco sendai

  仙台市青葉区一番町1-15-38 小林ビル3F

 

 閑話休題。。

 

 それから、先日ついに写真家志賀理江子さんの最新刊を入荷いたしました。昨夏、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)で開かれた個展「ブラインドデート」カタログです。

 作品はもとより、論考やトークイベントの記録など見どころも読み応えも十二分です。いがらしみきおさん(まんが家)や飴屋法水さん(美術家)、竹内万里子さん(批評家)、それに土田朋水さん(『ビッグイシュー日本版』編集部)らと濃厚な意見が交わされています。

 サンプルもございますので、ぜひともじっくりご覧頂けたらと思います。

 なお、単体では4,299(税込)ですが、昨年上梓された姉妹編たる写真集『Blind Date8,640(税込))とセットでお買い上げ頂くと、ともに消費税分をサービス致します!

 つまり、『ブラインドデート 展覧会』3,980 Blind Date8,000)で、、11,980!となります!!この機会をお見逃しなく〜。

 

 

 

 三分冊がバンドで留められています。志賀さんらしく無造作な風情がまたまたよいのです。

 

 

 写真のみを収めた『インサイドアウト』には、会場やそのバックヤードが志賀さんご自身の手で写しとられ、展覧会全体が再構成されています。独立した写真集の体裁です。

 かたや『リレートーク&ワークショップ』には会期中に開かれたトークとワークショップの記録が、他方『テキスト』では志賀さんご本人の文章と担当キュレーター国枝かつらさんの論考を読むことができます。

 

 それはそうと、先日山田尚子監督の最新作「リズと青い鳥」を見てきました。というか、もう4回も見てしまいました。

 すごすぎます。。

 

 

 予想をはるかに上回り、いまだに圧倒され続けています。寝ても覚めても、カットのひとつひとつを反芻してばかり。

 これはどうにかしてことばにまとめ、仮にでもよいから何らかの区切りを付けておかないと収まりがつかない、というか生活するうえでまずいような。。

 時間ないのにぃ。。

 

「本当に思い出せなくなる前に」続

  • 2018.04.30 Monday
  • 16:54

 おかげさまで遠地からのお客さまも含め、たくさんの方々にご覧頂いております〜。ありがとうございます。

 ゴールデンウィーク期間中も営業しておりますので、未見の方もぜひお立ち寄り頂けたらと思います。ただし火曜は定休です。くれぐれもご注意下さいませ。

 

 さて、清野さんの展示もついに9割方(?)ととのったご様子なので、先告どおりあらためてご紹介いたします(前回の記事はこちら)。

 いつもなら状況なりロケーションを活かして、直接ご本人がパフォーマンスなさることが多いのですが、今回はインスタレーションです。

 昨秋くだんの展覧会で実施なさった3つのパフォーマンスを踏まえ、「本」をいくつかお作りになって下さいました。

 

 ステイトメントの直下に一冊視認できるほか、この画像にはおなじ体裁の「本」が2冊写り込んでいます。。

 

 当のパフォーマンスが生まれるまでの経緯が日記ふうに認められてたり、古ぼけたフィルムが収納されてたり。どうやら必ずしも正確なドキュメントが目論まれているわけではなさそうです。というのも、内容が誤解も含め、想像をかき立てるよう工夫され、それどころか店内の古本に紛れるようにインストール(設置/排架)されています。かくれんぼみたい。さながら、テキストなり画像たちみずから、清野さんに代わってパフォーマンスしてるかのよう。

 

 

 元々、身近にある瑣末で見過ごしかねないものごとへそっと耳を傾けるようなワークが、清野さんじしんに多く、今回の「本」とその中味たちも彼女の姿勢そのままにひっそり佇んでいます。

 

 

 フィルムはテーブル下にある映写機で投影できます。フィルムはこの映写機と一緒にドイツで購ったんだそう。ともに中古品だとのこと。どこの誰がどんな目的で撮ったのか今となっては杳として知れません。。

 

 展覧会の会期は5月いっぱいです。

 会場では、本展のきっかけになった冊子も販売しております。

 どうぞお手にとってご覧下さいませ〜。

 

 『あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて』2018、¥972

  目次

   p3 展覧会のためのテキスト(門眞妙)

   p9 はじめに

   p13 あなたと海のあいまを見に行った日(金川晋吾)

   p19 三つのよそよそしい風景(佐々木友輔)

   p27 The catcher in the margin(関本欣哉)

   p29 遠藤くんと門馬さんのあいま、通り過ぎてゆく清野さん—写真にとっての速度、絵画におけるレイヤーの意味、問いにも充たない問いかけに呼応するパフォーマンス—(高熊洋平)

   p43 極私的回想—「あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて」に寄せて—(岩澤克輔)

   p59 すべての地域アート、震災アートに弓を引く(遠藤祐輔)

   p67 パフォーマンスについて(清野仁美)

   p75 会場マップと作品リスト

   p86 プロフィール

   p89 さいごに(門眞妙)

 

 ご参考までに、、拙文からお三方に触れた部分を抜粋しておきます。

 

 [門眞作品について]会田誠の《あぜ道》(1991)と比べると一目瞭然だ。この作品では近景に少女の後頭部を置き、まるでその髪の分け目を延長するかのようにあぜ道が頭部の向こうへ継続して描かれている。頭部が後景を隠すことなく、むしろ奥へ向かう中景の連続性が強調されているのだ。しかもこれは透視図法による空間の連続性にかけて、絵画史上の意味のアイロニカルな非/連続性が仕組まれている。よく指摘されるように東山魁夷の《道》(1950)を踏まえているのだ。つまり空間を通して絵画の中へ誘う同じ手管が、歴史への導入にもなりえている。会田にはストレートでなくとも時空間への信頼が認められる。他方門眞にはそれが端的にない。この点はのちに改めて論じる。…(本文p31)

 

 [遠藤作品について]少年らの写真も同じことだ。彼らの足が速いというのではない。かりに動作がいくら遅かろうと、あの布置を見切ることなど誰にも叶わないだろう。そればかりか、そもそも否応なく見過ごしてしまうと指摘したいのだ。風景の一つひとつが、あまりにありふれており「目に」どころか気にも留めないだろう。それに、細部どうしがあのような布置を描きうるのは、フレームの四辺があってこそなのだ。文字どおり「目にも留まらぬ」速さだ。目に留められない布置を、まさにカメラが目にも馴染む程度まで減速してくれているのだ。

 ありふれて当たり前に見えているこの現実には、そのすぐ傍らにもうひとつ別の現実性が走っていると考えられる。カメラはこの可能世界に速度を合わせて併走し、人の目にも見えるよう相対速度を相殺してくれるのだ。…(本文p34)

 

 [清野作品について]展覧会場には、吹き込まれた自作テキストが流されてはループしていた。どうやらある植物の前途を巡り、作家じしんが大きな集団と渡りあい、その末に敗北した、その実際の顛末が思い返されているらしい。

 文面はかなり一般化されており、具体的な像を結ぶのは困難だ。それが会場の上方から、朴訥かつたどたどしい声によって、静かに降り注いでいた。聞き耳を立ててようやく察知しうるささめきだ。

 それだけに、声高に訴えて植物の代理を請け合っているようには聞こえない。さりとて、損なわれた過去への感傷が詠われているわけでもない。むしろ、淡々としているあまり眼前の観者などお構いなしに、遥か神とでも交信しているかのようですらあった。…(本文p37-38)

 

 

3人展「本当に思い出せなくなる前に」開始!

  • 2018.04.21 Saturday
  • 15:42

 予告どおり、昨日4/20(金)から始まりましたー。

 仙台ゆかりの作家さんたち、遠藤祐輔さんと清野仁美さん、そして門眞妙さんによる展覧会です。

 

 遠藤さんの写真と門眞さんのドローイングが入り乱れてあしらわれてます。

 

 天窓のくぼみにまで!でも、ここの光がいっとう明るくて柔らかできれいに見えるかも。

 

 ものすごく薄いのでつい見過ごしてしまいそう。だけどじわじわ見えてくるのがなかなかよい感じ。

 

 外から見ると透けてきれい。ビビッドな色だけに余計に!

 

 さざ波と耳や衣服が風にそよぐアニメーション。門眞さん的には絵画の延長らしい。。

 

 「本当に思い出せなくなる前に」

  会期:2018.4.20-5.31(火曜定休)

  時間:10:00-20:00(土日のみ-19:00)

  会場:書本&cafe magellan(マゼラン)/仙台市青葉区春日町7-34

 

 昨秋にも、彼らは塩竈市杉村惇美術館展覧会を開きましたが、今回はその記録集の出版にあわせて企画されました。ほとんど全て新作です。塩竈でご覧になった方もきっとあらためて愉しんで頂けると思います。

 

 右が記録集『あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて』(2018)。左がドキュメンタリーまんが『あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべてができるまで』(2018)。

 

 記録集には、彼らじしんを含め、地元にご縁のある方々が文章をお寄せになっています。くだんの館の館長である岩澤克輔さんやGallery TURNAROUND 店主の関本欣哉さん、それに仙台でも個展をなさったことのある写真家金川晋吾さんなど。

 あるいは、佐々木友輔さんは、当地と直接には関わりがないものの、作家お三方と学生時分からお付きあいなさっている映像作家さんです。映画「土瀝青 asphalt」や「真景カサネガフチ」などの作品でご存知の方も多いかもしれません。なお、末席には不肖ながら高熊も寄稿させて頂いています。

 

 価格は税込み¥972です。作り手による言葉はもとより、他者の目をいくつも通した多角的なドキュメントになっています。

 あわせて、参加作家のお一人である門眞さんが、展覧会を作りあげる経緯をまんがに仕立てた姉妹編も販売します。こちらは税込み¥700です。

 

 

 展覧会を開くのって大変。ショックで門眞さんのメガネがよく割れます(まんがのなかで)。

 

 ほかにも今展の関連書を複数ご用意しております。サンプルもございますので、お手にとってご覧頂けたら幸いですー。

 表示価格はすべて税込みです。

 

 遠藤祐輔さんの写真集。右から『幽霊の証言 Ghost testimony』(2017)¥2970 と『長井さんの話 To wherever I have never been』(2017)¥2484。

 

 門眞妙さんが企画した展覧会のカタログ。右からグループ展『わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た』(2016)¥1944 と個展『美しい ending』(2013)¥540。

 

  

 

 なお、4/21現在、清野仁美さんの展示は鋭意準備中です。インストールでき次第あらためてご報告いたします!

『季刊 まちりょく』レビュー欄に寄稿しましたー + 2018.4.9 追記 + 2018.4.30 追記

  • 2018.04.05 Thursday
  • 21:18

 例によって、花粉の季節がまた巡ってきました。。ひどいときには店主が目を腫らして泣きながら営業してたりしますが、どうかお気になさらずご来店を!買取が増えるシーズンでもあります。新入荷の本をがしがし親の敵のように品出ししてお俟ちしてますので、ぜひどうぞー。

 

 久しぶりに告知をいくつか。

 

 もう先月のことですが、「仙台写真月間2017」について、仙台市文化事業団広報誌『季刊 まちりょく』第30号に寄稿させて頂きました。十数年に及ぶ「月間」のあゆみを振り返りつつ、そのポテンシャルを参加者のお一人である花輪奈穂さんの展示に透かし見るという趣向です。市内要所で配布されてますので、よかったらご笑覧下さいまし。

 

 

 「つんどく読書会」も細々と続いており、先月15日にはひっそり5回めが開かれました。課題図書はメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』。むかし読みかじったバーバラ・ジョンソンの論文もあわせて読み直しながら存分に堪能しました。おもしろかったー。

 主人公のフランケンシュタインは、真理の追究に憑かれた挙げ句「怪物」を生みだしてしまいます。ところが、その出来事の途方のなさに我ながら恐れをなして遁走してしまいます。この際、興味深いのは、フランケンシュタインが疲労にかまけて束の間見た夢です。抱きとめたはずの許嫁が、死んだ母に様変わりしていたというのです。そして、彼が目を覚ますのと軌を一にして怪物も目を開き作動し始めます。つまり怪物は母の代わりであり、それに執着する自己の投影でもあるわけです。さらに、この母子(自他)未分化なおぞましさには、自己とは異なる何ものかを生みだしてしまうことへの畏れおののきが重ね合わされます(これは作家じしんの/による出産と作品の執筆までもが畳み込まれているように読める。シェリーは17歳で流産を経験しており、執筆当時18歳でまた身籠っている。かつまた彼女の母からして、彼女が生まれた直後に産褥熱で亡くなっている。母の死の理由が自己の誕生なわけだ)。

 ゆえに、怪物があらわれるのは決まって、アルプスや孤島の峻厳な自然、恐れに満ちた風景のさなかですし、しかも窓枠の向こう、作中触れられる母の肖像画よろしくフレーム越しに対面することになります。やがて、互いに(愛と見分けがつかないほど)憎みあって追いつ追われつついに北極に辿り着くクライマックスに至っては、かたやフランケンシュタインが衰弱死してしまうや、怪物はやり場のない感情を爆発させて船の窓(フレーム)をぶち破って吹雪(恐れの象徴)に身を消します。完璧な演出です。

 母子や出産=制作、恐れ(理性では手に負えない、ロマン派的「崇高さ」の問題としても捉えられる。実際「崇高」という語句が何度か出てくる)のテーマもさることながら、これに絡んでナレーションの入れ子構造が事態をより深く描きだしています。フランケンシュタインは、単に自分語りをするのみならず、怪物の告白に耳を傾けてそれを今ここで語りなおします。それも直接読者に届くわけでなく、北極で出会った青年が手紙に書きとめて姉に宛てるというスタイルになっており、フランケンシュタインの出産=制作の恐れが、幾重にも反復され、繰り返し出産=制作のやり直し、再生がはかられている。そして、当の姉のイニシャルが「ms」、メアリ・シェリー作家本人を仄めかし、その境位に読者を据えるのです。読んでて、おぉと唸ってしまいました。

 ちなみに、、怪物がその後イヌイットと別の人生を歩んでくれてたらいいなと仰った方がいて、とても共感したり。。

 

 次回は5/18(金)20:15-22:00、マゼランで。課題図書は宇野千代の『生きて行く私』です。

 参加者のつんどく本から選んでいるので、つどに応じて振り幅が大きいようだけれど、女性の生きかたにかかわる小説という点では共振する部分もあったりするかも。。

 

 「多夢多夢茶会 その六」のチラシを今回も描かせて頂きましたー。前回は広角で煽り気味だったので、望遠で俯瞰にしてみました。っていうか、アニメ版「恋は雨上がりのように」のオープニングをやってみたかっただけでもあります。。観覧車は、久野遥子さんのマンガ「甘木唯子」を読んでからいつか描きたいと思っていて、それがいざ取りかかってみたら、パースとりながら何本も線切らなきゃならなくて、、花粉症の身にはなかなか難儀な代ものでした。

 依頼主からは、植物系の装飾を要望されていたのだけれど、結局ずいぶんシンプルにスミレの一輪挿しになってしまいました。これでよかったのかしら。。

 全然関係ありませんが、今期のアニメでは「宇宙よりも遠い場所」が抜群に素晴らしかったなぁ。シナリオが恐ろしくよくできてて感銘を受けました。。

 

 A4版コピー用紙両面印刷。

 

 

 

2018.4.30 追記 ***

 

 おかげさまで、盛況のうちに幕を下ろせたようです。よかったよかった。

 じつは、当日会場で配布する物販案内として、うえのチラシから時節を遷した差分のイラストも描かせてもらいました。あわせて掲載しておきます。

 今年は、いつになく駆け足で春が過ぎ去ってしまい、桜吹雪の場違い感がハンパなく、新緑に変えてみました。。

 

 

 

***

 

 あと、予告していた門眞妙さんと遠藤祐輔さん、清野仁美さんらによる小品展は、4/20(金)から5月いっぱいの会期に決まりました〜。委細は追って後日に!

 

2018.4.9 追記 ***

 

 先日、門眞さんがチラシをお持ち下さりました。栞ふうで可愛らしい体裁です。

 

 

 「昨秋、塩釜で行われた美術展『あなたと海のあいま、とおりすぎてゆくすべて』の記録集の出版を記念し、執筆者の一人である高熊洋平さんの営む古書店にてささやかなリリース点を開催致します」。

 

 「本当に思い出せなくなる前に」

  遠藤祐輔清野仁美門眞妙

  2018.4.20-5.31(火曜定休)

  10:00-20:00(土日のみ-19:00)

  書本&cafe magellan(マゼラン)

  仙台市青葉区春日町7-34

 

***

 

 なお、あわせて市内の design labo necco sendai さんでも関連企画が同時開催されます。

 くだんの記録集の版元であるDOOKSさんから作品集を上梓なさっている平尾菜美さんと後藤洋平さんによる二人展です。何やら新国誠一から触発を受けて準備を進めていらっしゃるようです。気になります!

 

 「檸檬水」

  平尾菜美後藤洋平

  2018.4.22-5.13(金土日月のみ)

  12:00-18:30

  design labo necco sendai

  仙台市青葉区一番町1-15-38 小林ビル3F

 

 もうひとつ大事なお知らせがあります!

 Book!Book!Senadiの10周年を記念して今月古本市が開かれます。

 あいにく弊店は参加できないのですが、東北中からいろんな古本屋さんが集まると伺い、期待に胸が膨らみます。おすすめですよー。

 

 「Book!Book!Miyagi@新寺こみち市」

  2018.4.28.sat

  10:00-15:00

  新寺こみち市会場

  新寺五丁目公園

  新寺こみち市ホームページ

 

第5回 青野文昭小品展、ちょこっと変化

  • 2018.01.28 Sunday
  • 16:55

 先日、3回めの手を加えて頂きましたー。

 青野さん、年末年始とインフルエンザでダウンなさって大変だったようです。

 病み上がりにも拘らず、いらっしゃるなり颯爽と外へゴミ拾いに(素材探し)向われ、頭が下がる思いでした。。

 

 

 

 今回は、落ち葉さながらに一部が剥離、離脱してひゅーっと吹き飛び、別の壁面に不時着する仕儀になりました。実際にも拾ってきたゴミ(素材)に枯れ葉が交じってます。

 

 

 

 

 当初は1月いっぱいの会期を予定していましたが、ちょこっとだけ延長します。2月上〜中旬くらいはご覧頂けそうです。お見逃しなく!(ちなみに、、青野さんの後は、この方たちの展示を予定しています。お愉しみに〜)

 おまけ画像として、作業中の青野さん。拾ってきたゴミ(素材)にメディウムをペタペタ、ドライヤーで乾かしてます。こうやっていつも朽ち具合を安定させているのです。

 

 

 それから、もう終わっちゃったイベントですが、場内で配布されたフライヤーのイラストを描かせて頂きました。せっかくなので、こちらにも掲載しておきます〜。

 A4版を中折り。一枚めが外側(表紙、裏表紙)で、2枚めが内側にあたります。

 ベタですが、ヘッドホンのコードを使ったこういうイメージ描いてみたかったのです。あと、似顔絵の目もとの様式とシロツメクサやヘビイチゴは、完全に久野遥子さんの影響です。。

 

 

2018年があけました。

  • 2018.01.01 Monday
  • 16:42

 あけましたね、おめでとうございますー。

 

 先年もみなさまにはお世話になりました。

 あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 そして、どうか本年もよろしくお願い申し上げます。

 

 よいおとしになりますように!

 

 

 予想どおり、元日は静かすぎる営業になりました。

 でも天候には恵まれて、すこぶる穏やかな一日でした。こんな日が続くといいなぁ。

 

第5回 青野文昭小品展!+ 追記11.23 + 12.30

  • 2017.11.16 Thursday
  • 23:58

* 2017.12.30 追記

 年末年始の営業につきまして。

 もう突入していますが、、

 例によって、定休日の火曜だけ(2018.1.2)お休み。そのほかは通常営業いたします。

 大晦日も元日も開いてますので、よかったらどうぞ〜!

 なお、青野さんの展示は1月いっぱいしております。

 

 

 唐突ですが、青野文昭さんにまたまた展示して頂くことになりましたー。

 しかも今までにない新たな趣向です。従来のように完成作をお持ち頂くのでなく、弊店を現場に制作を進めて頂きます。それも何回か跨いで。気長なライブ感覚です。

 きのう閉店後から作業に取りかかりました。

 さっそく材料集めに春日町界隈を走査します。。なんて聞こえはよいけれど、傍から見ればどう転んでも、夜分におっさん二人でゴミ拾いです。さりとて、事前に危ぶまれた職務質問に見舞われることもなく、無事たばこの吸い殻やら包装、タイルの欠片とか収穫しました。ほくほく。

 店に戻り、ゴミ、じゃなくて素材を軽く払い、メディウムで固めます。乾くまでのあいだ、コーヒーでからだを温めつつ雑談。そして、いよいよ本格的に制作を始めます。

 青野さんご持参の広げた段ボールを壁にあてがい、塩梅を見定めます。たまさか斜めになったのが存外おさまりよく、それでゆこうとなりました。とりあえず角から着手。馴染みやすいように?ほぐしつつ、どれがあうかしらと、ゴミ、じゃなくて素材を見つくろいます。

 

 

 素材(ゴミじゃない)に合わせて輪郭を位置どり、カットします。

 それからあらためてゴミ(素材)をあてがい、ホットボンドで接着です。

 ゴミと段ボール、両者の折れ具合をうまく引き合わせながら手を動かします。

 

 

 先に切除していた段ボールの切れ端を再利用。継ぎ目に足して表面を馴染ませます(?)。

 そしていよいよ着色。青野さん、子どものころから一発で色を作るのが特技だったそうです。

 この包装の青も、迷いなく二本の絵具を交ぜてあっという間に出来てしまいました。

 

 

 

  長押でいいのかしら、この部位。とまれタイルの欠片を既成の設備に乗っけたうえで、段ボールと連携させています。

  これまでも壁かけレリーフ状の作品は決して少なくないけれど、奥と手前のディメンジョンをはっきりさせてるのは珍しいと思う。

 

 

 さらに、垂れていただけの下部を立ち上げます。

 というか、形状記憶合金さながら、元の箱状へ戻ろうとして、間違ったまま手をこまねいてる段ボールさんの図、というかんじ。

 そっちに曲がるはずじゃないのに!とかテープ中途半端!とかツッコミたくなる。

 あと、未使用のまま紙くず同然になってた封筒が、伝票のつもりなのかちゃっかり居座ってる。逆さまなのが微笑ましい。

 

 

 今後もご都合がつき次第、手を加えていって頂く予定です。たぶん年明けまでやってると思います。

 かなりのんびりした進行ですが、乞うご期待!

 

* 2017.11.23 追記

 さる日曜11/19、急に青野さんがいらっしゃり、さっそく手を加えて下さいました。

 この欠片は、先に弊店周辺で夜なよな拾ってきたものでなく、当日ご持参下さったものです。

 

 

 この日は、お若い折にお描きになったという、まんが同人誌もお持ち下さり、いっとう盛り上がりました。

 じつは青野さん、宮城教育大学の漫研を創立したメンバーのお一人なのです。といっても当時は1年だか2年程度で廃部になったそうですが。。

 孤独な少女の心境を金魚に託した、なかなか味わい深い作品でした。つげ義春や鈴木翁二みたいな、乾いたリリシズム。

 あと、小学生のころにお描きになったロボットものなんかも、定型を踏まえつつ処々工夫が凝らされてたり、ほっこり和みました。

 それにつけても、いかにも80年代な風が、同人誌いっぱい溢れかえっていて圧倒されっぱなし。。高橋留美子とか吉田秋生、あと青年誌に典型だった女性像。

 

* 追記 終り

 

 これまでの弊店での青野さんの展示はこちらからどうぞ〜。

 

 それから、ちょうど今、ご近所のせんだいメディアテークで、青野さんも参加なさっている企画展が開かれています。

こちらは旧から近作、小から大までたくさん出品なさっています。あわせてぜひ!!

 

 コンニチハ技術トシテノ美術

  会期:2017.11.3 - 12.24

  時間:11:00 - 20:00

  会場:せんだいメディアテーク 6階ギャラリー4200

  料金:一般¥500(高校生以下無料)

 

 かたや、恒例のつんどく読書会、第3回めが来る11/30(木)に開かれます。

 今回は橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』です。懐かしい。。

 たぶん前後篇と割合ボリュームがあるから、つんどくにしてたっていう方も相当数いらっしゃりそう。

 よかったらお申し込みくださいね。主催のセンダイ自由大学さんのホームページからどうぞ!

 

 

 また多夢多夢茶会さんのチラシにイラストを書かせて頂きました。

 まいど好き勝手やらせてもらってます。。

 例によってB5中折りです。

 表紙では単なる一点透視に思わせて、、地続きの裏表紙とあわせ見ると、じつは歪曲収差をつけて画角を広々させてます。

 視心から左半分はトリミングしてるのです。

 

 

 広げると、こんなかんじ。

 収差に沿ってこつこつ描いていると、目がそっちに順応して、非ユークリッド幾何学を地で味わえます。

 いざ現実世界に目を向けたら、かえって歪んで見えてくらっくら!はじめてのときは吃驚してしまいました。。

 

 

 中を開くと、、銀杏並木の落葉もよう。今の時期は弊店の前も黄いろがキラキラきれいです。

 

 

 多夢多夢茶会その五

  出演:劇団 短距離男道ミサイル(演劇パフォーマンス)

     燃えるゴミ(未完成)

  構成:結城敬介

  日時:2017.11.26(日)

  会場:多夢多夢舎中山工房(仙台市青葉区中山2-18-5)

  料金:¥1500(1ドリンク付)20席限定・予約優先

     ※小学生以下¥500(1ドリンク付)

  主催:タゴマル企画

  予約連絡先:tamtamchakai@gmail.com

「多夢多夢茶会その四」チラシにイラストを提供しました〜

  • 2017.08.14 Monday
  • 21:18

 今さら告知もありませんが、、例年どおり、本年のお盆期間も通常営業しております〜。

 ただし、明日8/15(火)は定休です。ご注意をば。

 

 本題前に、お知らせ三っつ。

 

 まずは、さる7月に始まった「つんどく読書会」。次回の委細が決まりました。

 9月21日(木)。会場は、同じく弊店マゼランです。

 課題本は、サキの『クローヴィス物語』(白水社)。

 委細ほかご参加申し込みなどは、センダイ自由大学さんのホームページからどうぞー!

 

 

 前回の『ミス・ブロウディの青春』(スパーク)は、参加人数こそ少なかったものの、予想以上に盛り上がりました。

 著者じしんの、運命=シナリオを書き換えるという欲望を、メタフィクション的な試みとして、教師の影響から自律を企てる教え子の成長に読みとったり。あるいは、それが1930年代のイギリスを舞台にしていることから、ファシズムとの関連も話題に上がりました。ファシズムを美的に理想化する教師、彼女の栄枯盛衰はそのまま年表上のファシズムの足取りのアレゴリーになっています。

 次もみなさんとどんな読解ができるか今から愉しみです〜。

 

 話は変わって、、来月の下旬、仙台おとなりの塩釜で面白そうな展覧会があります。

 10代を仙台で過ごした経緯のある、若手作家らによるグループ展です。今や東京を拠点に、ご活躍目覚ましい方々です。

 絵画の門眞妙さんに写真の遠藤祐輔さん、そしてパフォーマンスの清野仁美さん。

 個別に活動なさってきたお三方ですが、並んでみると、ともに風景なり環境と、それに取り巻かれる主体(ざっくりした意味で)を手掛かりになさっている共通項が窺えます。

 ゆえに今展では、作品が仙台なり塩釜とどんな関係を結ぶのか大いに興味がそそられます。

 追って注目してゆきたいと思います。

 

 *「あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて」 

  会期:2017.9.21(木)~10.1(日)※月曜休

  時間:10:00-17:00

  会場:塩竈市杉村惇美術館市民ギャラリー
  料金:無料

  お問い合わせ:anatatouminoaima@gmail.com

  企画:門眞妙

  協力:新宿眼科画廊

  備考:10.1(日)16:00~17:00にクロージングパーティあり

 

 かたや東京、吉祥寺では、お馴染み青野文昭さんの大きな個展が開かれます。

 

 

 当初から伺っているいきさつから察するに、今回の大作は今までとはひと味違ったものになりそう。

 どうやら、池の頭公演の池という地理を糸口に編まれているらしいのです。震災以降、環境を参照する作品が増えてきましたが、これまで以上に踏み込んだしろものみたい。うぅ、見にゆきたい。。

 来月初旬からです。

 

 *「コンサベーション_ピース ここからむこうへ 青野文昭展」

  会期:2017.9.9(土)-10.15(日)※9.27休

  時間:10:00-19:30

  会場:武蔵野市立吉祥寺美術館

  料金:一般¥300、中高生¥100(小学生以下、65歳以上、障がい者の方は無料)

 

 閑話休題。

 

 かねて、チラシ制作で関わらせて頂いているイベント、「多夢多夢茶会」。今夏ふたたび開催されるに及び、またイラストを描かせて頂きました。

 例によって、B5コピー用紙を中折りしてます。

 

 

 俯瞰で入る表紙。フランス窓は、やっぱり魅力的なモチーフです。。

 

 

 これを開くと、、

 

 

 カットバックで室内へいきなり侵入。望遠パースと逆光で表紙とコントラストつけてます。

 そして、裏表紙へ回ると、、

 

 ふたたび外へ。ねこは、どうやらスズメを仕留めそこなった模様。。

 

 さて、イベントの内容はというと、、メインのジャグリングとともに、色んなジャンルのパフォーマーが舞台にあがります。

 今回の新味は、人形遣いの長井望美さんでしょうか。一方、ジャグラーには東京からハチロウさんが招かれます。ホスト側からは南部大地さんが演奏なさるとのこと。いつもジャグリングで参加なさる結城敬介さんは、構成演出に回られるそうです。

 

 ※「多夢多夢茶会 その四」

  日時:2017.8.27(日)17:30開場/18:00開演

  開場:多夢多夢舎中山工房

  料金:¥1500(1ドリンク付)20席限定・予約優先

  主催:タゴマル企画

  予約連絡先:tamtamchakai@gmail.com

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