小さな古本市「6 books」やってます!

  • 2019.03.09 Saturday
  • 16:45

 ご近所は同じ町内にある the 6 というスペースで古本市が始まりました〜。

 規模は決して大きくないものの、市内外の本屋6店舗がギュッと絞り込んだ棚をつくっています。

 目下ビジュアル的なものやデザイン方面に寄せた内容になっていますが、今後の動向次第で補充や入替えを考えています。

 よかったら繰り返しお立ち寄り頂けたらと思います。

 いよいよ春めいてきたこのごろ、お散歩がてらどぞー!

 

 入口からずんずん進んで左手壁面が会場です。

 

会期:2019.3.4 - 5.31(原則平日のみ)

時間:9 : 00 - 18 : 00

会場:the 6(仙台市青葉区春日町9-15-3F)※ 当該ビル脇の入口から階段を上ります

備考:平日18 : 00以降もしくは土日祝日でも他イベント開催時であればオープンしています

参加店舗:

 book cafe 火星の庭/仙台
 古書水の森/仙台
 古書往来座/東京
 阿武隈書房/いわき

 書本&cafe magellan(マゼラン)/仙台

 

 それから、来週木曜3/14には再びつんどく読書会が弊店で開かれます。

 課題テクストは大江健三郎の小説「河馬に噛まれる」です。本来は連作短篇として複数の作品から編まれていましたが、現在入手して読めるものはというとそのうち2篇のみ、『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)に収録されています。

 現実と虚構の差異はもとより、立場や時間など色んな力線に引き裂かれるかのようなエクリチュールはとても魅惑的です。大江さん一流のユーモアも相変らず味わい深いですし。「河馬」ものに限らず、文庫所収の作品はどれもおもしろい。

 それにつけても初期から一挙にこうして辿りなおすと、光さんの存在の大きさに改めてしみじみさせられます。かたや弟さんの聡明さに不意とたじろがされたり。。

 ちなみに今回は参加者の方々に「好きな一節、厭な一節」を選んできてもらうことになっています。これは初の試みです。ドキドキしますが、お気軽にどぞー。

 お申し込みはセンダイ自由大学さんのフェイスブックのページで!

 

 つんどく読書会「河馬に噛まれる」(『大江健三郎自選短篇』岩波文庫所収)

  日時:2019. 3. 14. thr. 20 : 15 -

  参加費:¥1,000 -(コーヒーとクッキーも含む)

 

 ところで、、先月末はまた別の読書会(ご近所のサラリーマン方数人との)で『第一阿房列車』(内田百痢砲鯑匹澆泙靴拭推薦者の方が用意して下さった資料が面白く、こちらでもご紹介しておきたいと思います。ちょうど百里虜酩覆映画や舞台に翻案された折の、作家じしんによる言葉です。
 「私は従来の作品に於いて文章を書いたのであって物語の筋を伝えようとしたのではない積もりである。そう云う積もりで書いた私の作物の中から芝居なり映画なりの組立てが成ったと云うのは、その事に携はった脚色家の労苦と好意による事であって、私としては深甚の感謝を致さなければならぬと考へるが、同時に作者として自省す可き点があると思はれる。つまり私の文章が未熟である為に後でおりが溜まり或はしこりが出来て、そう云うところが人人の話の種になるのではないか。もっと上達すれば私の文章も透明となり何の滓も残らぬであらう。さうなれば芝居や映画になる筈がない。今日の事は私の文章道の修行の半ばに起こった一 の戒めであると考えられる。読者が私の文章を読む以外には捕える事が出来ないと云う純粋文章の境地に到達する様一層勉強するつもりである」(『頬白先生と百鬼園先生』序、昭和14)
 モダニスト的(生理を核にした形式主義)信念が全開する一節に胸を打たれました。もし日本にモダニズムがあったとしたなら、新感覚派なんかよりいっそう、漱石(「 F + f 」)—百離薀ぅ鵑砲海渋づいていると、かねて見立てているものですから。。

『新訳 弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル)の読書会あります〜。

  • 2019.02.10 Sunday
  • 13:38

 工房のお引越しにつき一ヵ月まるまる間が空いておりました、つばめどうさんのおかし。

 きのう久しぶりに納品して頂きました。やっぱりおかしがあると気もちも華やぐなぁ。

 これからもまた従来どおり第二・四土曜に届けて頂く予定です。一服なさるなり、読書なさるお供にどぞ〜。

 

 左から、、コーヒーカップクッキー¥230、チェックサブレ¥240、お月さまのジンジャークッキー¥210 です!

 

 閑話休題。。センダイ自由大学さん主催の読書会がまたまた弊店を会場に開かれます。

 「かんがえる読書会」この週末2/15(金)20:15〜 ※参加費¥1,000です。課題本はオイゲン・ヘリゲルの『新訳 弓と禅』(角川文庫)。

 

 

 大正時代に講師として東北大学にやってきたヘリゲルは、数年に及ぶ滞日中に弓を修めます。師事した阿波研三は丁度その時機、的中させるだけの弓術に飽き足らず、弓のあり方を禅の実践から最解釈しようと運動を起こしているところでした。

 もとより神秘主義(マイスター・エックハルト)に傾倒し、禅に強い関心を抱いていたヘリゲルには打ってつけの人物だったのです。そこで両者のあいだに濃密な交流が生まれることになります。本書にはその経緯が生きいきと刻まれています。

 ちなみに副読本というわけではありませんが、あわせて『禅という名の日本丸』(山田奨治)もお勧めしておきます。どうも従来のヘリゲルって無闇に理想化され過ぎてきたきらい(オリエンタリズムとその逆輸入)があるので、史実に基づかせて相対化するにはとても有用な著作です。

 

 読書会は一応事前申込みが原則ですが、よかったらふらっとでも結構ですのでご参加してみませんか。お俟ちしておりますー。

 委細はセンダイ自由大学さんのフェイスブックをご覧下さい。

 

 あと、3/14(木)には「つんどく読書会」も開かれます。こちらの課題本は大江健三郎の短篇『河馬に噛まれる』です。いま手に入りやすい版だと岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』に収録されています。ご興味のある方ぜひ〜。

 詳しくはこちらを。

 

※ 2019.2.17 追記

 お陰さまで「かんがえる読書会」ぶじ終了いたしましたー。

 ご参加下さった方々へ、、重ねがさねありがとうございました!

 毎度ながらこじんまりした会ですが、楽しいひとときでした。次回はおよそ4月ごろを見込んでいます。

 課題本が決まり次第日程ともどもあらためてお知らせ致します〜。

2019年です。

  • 2019.01.02 Wednesday
  • 18:33

 今年は穏やかなお正月になりました。雲の間にまに差すお日様がかえって眩しいくらい。さりとて、風がふいに吹き寄せればあんまり冷たくて堪らず身震いしてしまいます。冬はやっぱり苦手です。。肩が無闇と凝ってしまうし。バリバリです。習慣の猫背に一層の拍車がかかり、無意識に身を屈めて過ごしているみたい。

 お天気同様、春日町界隈も三箇日のあいだはいつにも増して落ち着き、ひっそりしています。オフィスや店舗もどこもお休みで、時たま走り抜けるタイヤの音が余韻を引きます。寒さは好きになれないけれど、キンとした冬場特有のこの静けさにはつい耳を澄ませてしまいます。他には得難い安らかさ。寒くさえなければなぁ。。

 

 

 遅ればせながら新年のご挨拶を。謹んでお慶び申し上げます。。

 本年も何卒宜しくお願い致します。

今年さいごの読書会は『第七官界彷徨』(尾崎翠)

  • 2018.12.21 Friday
  • 20:45

 先日は固定メンバー3名からなる読書会がありました。

 順繰りに課題図書を提案しあって、つど推薦者がレジュメを作ってきます。とくに取り決めも設けず気兼ねなく進めているせいか、月日の経過なんて思いもかけないまま、毎回たのしいなぁとそれきりでいました。

 けれど、指摘されてみたらもうまる2年も続いていたらしい。

 当初は近くにお勤めのお客さまから誘われて、能天気に後先も考えないまま請け合ったものでした。それが今や単に本を読むペースという以上に、生活のリズムにまで波及している節があります。図書館に籠ったりとか。まぁもとより休暇の過ごし方なんて読書ぐらいしかなく、趣味の乏しいぼくのことなので客観的には何ら代わり映えしないでしょうが。。

 2年も経ちながら未だ会には名称もなく、ただただ読んできてはみなで内容を吟味するだけの時間。そんな潔さが自然体を促してくれて心地よいというか、性に合ってるのだと思います。

 

 それでも成り行きながら、選ばれる本には傾向が顕著です。列挙してみると、、

 『吾輩は猫である』(夏目漱石)『遠野物語』(柳田国男)『機械』(横光利一)『病牀六尺』(正岡子規)『近代日本人の発想の諸形式』(伊藤整)『工芸の道』(柳宗悦)『小説神髄』(坪内逍遥)『武蔵野』(国木田独歩)『にごりえ』(樋口一葉)『金色夜叉』(尾崎紅葉)『浮雲』(二葉亭四迷)今回『第七官界彷徨』(尾崎翠)次回予定『第一阿房列車』(内田百蝓房 慌麝縦蝓愕団』(田山花袋)。

 

 初回の『猫』に味をしめたものかしら、日本の近代文学を辿り直すような足どりになってしまいました(メンバーに日本文学プロパーがいないのに不思議です)。まぁこれはこれで今(41歳)読み返すにつけてもなかなか味わい深く、毎度思いのほか熟読してしまいます。

 

 

 そして今回は、ぼくが選んだ本だったのでした。尾崎翠の『第七官界彷徨』です。

 離散的な文体につい目を奪われがちですが、じつはプロットが恐ろしく巧みかつ堅牢です。ところが寡聞にしてちゃんと踏み込んだ研究にはなかなか巡り会えません。そもそも著者自らしてプロット作成に専心した旨を公表しているにも拘らずです。

 よく見かけるのは、モンタージュについて(山田稔やリヴィア・モネ)など技法的な指摘だったり、婚姻制度やジェンダー理論(川村湊や小谷真理)など外からのアプローチです。いつも啓発されこそすれ、歯がゆく物足りない思いに浸ってしまいます。どなたか内在的な読解をなさっていないものかしら。。

 

 最近になってようやく、まだしも作品に寄り添った論述に接することが叶いました。渡部直己さんの『日本小説技術史』に収められた小論です。ただ惜しむらくは(誠に勝手な話ですが、、)、論点が言葉そのものとの応接へ向かってしまい、プロットについては行きがかり上触れているに過ぎないという点でしょうか。

 それでも、作中に仕掛けられた隠喩の系をきちんと押さえていらっしゃる点はとても共感を覚えました。例えば「四」=「詩」などあまりに自明なせいか、ことさら言及すらされてこなかったのではないかしら。そこから積み上げて論を進めることだって可能なはずなのに。

 

 そんなあれこれ鬱積する(?)思いもあって、この機会にせっかくだからと箱起こしを試してみました。すると予想以上に類型的なパタンが浮かび上がり我ながら吃驚。まるでハリウッドの脚本もかくやという出来映えなのです。まさかここまでとは。。

 プロットの進行は主人公の町子を段階的に追いつめた挙げ句、大逆転のカタルシスを齎します。大切なものを損ない続けた果てに、彼女は喪失する意味合いそのものをひっくり返し、能動的に捉え返すのです。じつに鮮やかな軌道を描いて物語は幕を閉じます。

 

 かたや映画の脚本づくりは、1980年代から90年代にかけてハリウッドで急速にメソッド化します。大きな資本を背景に体系的な形式化が押し進められました。いわゆる三幕構成です。その後もこれを元手に、より精緻な方法論が模索されています。

 今回の読書会では、比較的新しいブレイク・スナイダーの『SAVE THE CAT の法則』を参照しました。理由は使い勝手のよさ以外に他意はなく、さしあたりプロットラインの可視化を最優先させたに過ぎません。

 

 以下当日のレジュメを転載します。画像上の文字が小さく読みづらそうなので、冒頭に付した「(作品の)特徴」だけでも抜き書きしておきます。

 あと、図類の見方も簡単に説明しておきます。

 

特徴

 

・ 離散的な文体。小道具やその扱い、あるいはキャラクターの仕種などあらゆる対象が出しぬけかつ無造作に提示され、エッジが立っている。読者がつい持ち込んでしまいそうな、通念的な因果や目的連関はご破算にされるほかない。いきおい取りあわせに応じて、名詞や数詞が目紛しく星座を結ぶ。けれどやはり完全に囲い込まれることはついぞない。観念の孤立は揺るぎなく、どこまでも固く閉じている。

 

 ・ 反対にプロットはきわめてオーソドックス。リニアーだ。冒頭に掲げたテーマを律儀に追求し、順当に結末を迎える。恐れを知らない無垢な町子はやがて三度の試煉(喪失)を潜り抜け、晴れて恋をし「第七官」を暗示する。

 

    ( 喪失1 )⑨|髪(=祖母):機能としての母、受動

    ( 喪失2 )⑬|三五郎:機能としての父、受動

    ( 喪失3 )⑮|自己(→変身):虚構化、能動

 

 ※ 特筆すべきは、町子が恋する必要条件が同時に失恋をも意味するというパラドクス。浩六を恋しうるのは、写真のなかの詩人に変身した町子'だけ。裏返せば、元の町子は浩六とは恋できない。恋=失恋という出来事。

 

 ・ 欠番としての四。町子を除く他の人名には洩れなく数字が含まれ、綺麗に連続している。一助、二助、三五郎、浩六。小野家の序列を顧みるにつけ、町子が四を担う宿命は火を見るより明らかだ。いうまでもなく四(し)とは詩の謂いであり、第七官として追求されるべきものだ。故にそれは実体化もされず、かえって謎として町子(=読者)を誘い込む。強いていうなら、その過程が描くパフォーマティヴな軌跡(=本作)こそが第七官の詩にあたる。終局に浩六すなわち六が配されているのは、本作の通読がまさに七の、第七官の到来を仄めかすために違いない。

 

 

 下に示すレジュメの右上図は、水平方向がプロットの進捗具合。垂直方向がそれに応じて構成上見込まれうる各シーンのボルテージ。なお紗をかけた第二幕の帯域はそのまま、下部にならべた箱書き中やはり紗をかけたプロット群に対応する。

 

 下部箱書きの中味はその左上から順に次のことを示す。プロット番号(例 ①)、『尾崎翠集成』の該当ページ数(例 p11-12)、『SAVE THE CAT の法則』で使用されているプロットポイント名(例 ・オープニングイメージ)、シーンのロケーション(例 【語り手の時空】)、シーンの概要(例 > 自他己紹介)、主要なトピック(例 テーマ:「ひとつの恋」と「第七官にひびくような詩」の探索)

 

 

 最後に大事なお知らせ!

 例によって年末年始の営業についてです。

 これまたいつものことながら、定休日である火曜以外は通常どおりの予定です。平日は10:00 - 20:00、土日は10:00 - 19:00。つまり大晦日も開いています。ただ元日のみ火曜にあたるので休業します。

 12月に入って買取がぐっと増え、目下急ピッチで品出しに精を出しています。少しずつ棚の様子が変わってきてるので、ぜひ一度ならず覗きにいらして下さ〜い。お俟ちしておりますー。

 

  右からボタンクッキー@¥180、ひつじのレモンクッキー@¥250、胡桃のスノーボール@¥230

 

 もうひとつ大事なお知らせがありました!!

 いつもクッキーを届けて下さっている、焼き菓子つばめどうさんが1月の間だけ臨時休業なさることになりました。

 つきましては、弊店でも1月の中旬から2月の上旬にかけてはおかしをお休みにさせて頂きます。どうかご了承お願い致します。

 なお、1月の上旬はまだ在庫を確保している予定です。お茶請けにどうぞ〜。

 

 どうかご了承お願い致します。

(追記「第4回 一番町蚤の市」に参加致しまーす。)『ぱど』『春日町ドローカルマップ』に掲載して頂きました。

  • 2018.11.16 Friday
  • 16:35

* 2018.11.26 追記

 この日曜日12/2、、だからもう6日後に迫っておりますが、「第4回 一番町蚤の市」に参加させて頂くことになりましたー。

 急な告知になってしまい、面目ありません!

 

 

 会場は東北大学片平キャンパス付近にある dsign labo necco sendaiさん。カフェでもあり、アンティークも販売しているお店です。

 イベントには、弊店ほかには古物や雑貨屋、それにベーグル屋さんも参加なさるようです。

 たった一日限りの蚤の市。ぜひ足を伸ばして頂けたらと思います〜。

 もちろん、当日は春日町にある弊店の方も開いてますのではしごも大歓迎ですよ!

 さて、どんな古本を準備しようかしら。。

 

 

***

 

第4回 一番町蚤の市

 

 東北近隣の出店者の手仕事の品、古道具、骨董、古本、古着、食品、パン、珈琲などが集うイベントです。今回は石けんWSやneccoランチもあり!

 

日程:2018.12.2(日)

時間:10:00 - 17:00

会場:dsign labo necco sendai(仙台市青葉区一番町1-15-38小林ビル3F)

出店リスト:

 一閑人(福島/古物)

 kamenoki natural soap(宮城/石けんWS)

 北野史(宮城/木工)

 ストウシノブ(宮城/リース&スワッグ)

 中嶋窯(秋田/陶器)

 山ベーグル&CoffeeStand(山形/ベーグル)

 書本&cafe magellan(宮城/古本)

 …and more!

備考:詳しくはneccoのインスタグラムフェイスブックをご確認ください。

 ※ 石けんワークショップについて

  ・10:00〜/12:00〜/14:00〜の計3回開催(1時間程度)

  ・各回定員3名

  ・参加料金 ¥2,500-(1drink付)

  ・ご予約はkamenokiさんへ(info@kamenoki.jp/当日受け入れもOK!)

 

 

 例年より暖かいせいか、それだけで気持ちに余裕が生まれる気がします。ふとわれに返ったら随分本を読み進めていたりして、何だか充たされた心地に包まれます。まぁ、そのあいだ客足が途絶えていたというだけの話ですが。。

 それでもひたひたと朝晩は冷えるようになり、暦をめくれば今年ももう僅かです。あと少し、秋が深まってきたら納豆汁を作ってみようと思います。珍しく芋がらを頂戴したものですから。目下の愉しみはそればかりです。

 

 さてさて、フリーペーパーの『ぱど 富谷・泉エリア』第687号(2018.11.16)で弊店も取りあげて頂きましたー。

 「あなたの街の本と出会える場所 この季節に読みたい心温まる一冊」と題して、宮城県内の本屋が4店舗紹介されています。

 市内の「BOOK WITH CAFE MARY COLIN」さんや石巻市にある「石巻 まちの本棚」さん、それから柴田郡の「みちのく書房」さん。

 

 

 弊店からの推薦本は『尾崎翠集成』上巻(ちくま文庫)です。コメントも短いので転載しておきます。

 

 「童話めいて、とぼけた味の小品が一杯です。わけても『途上にて』は、狐につままれたかのような、ふわっとした読後感になれます」。

 (※ とにかく「途上にて」はすごい。印象は軽快なのに構造がやたら重層的でなおかつ完成度がめちゃくちゃ高い)

 

 

 いっぽう、ご近所にある「the 6」というコワーキングスペースやシェアオフィスを運営なさっている方々が、この界隈のガイドマップをお作りになりましたー。

 春日町って、広くもないわりに住居や店舗が入り乱れていてどうも見通しがよくありません。でもじつは色んな業種のお店が犇めいています。

 地図を俯瞰するうちに、ぼくまでわくわくしてきました。こんなに多様だったなんて。見馴れていたはずのエリアなのに、新鮮です。

 あと、表紙部分をタイポロジカルに飾る街区表示板、とくに5番のがとってもチャーミングです。

 個人宅の一画を占めるものらしく「犬」シールが貼られてます。退色した風情もさることながら、4枚もべたべた無造作にあしらわれ、どこか歴代の犬と家主らの面影が偲ばれてなりません。町名がすっかり掻き消えて「犬」ばかりが目を引くというのも、公私があべこべで微笑ましい。

 おまけに、わざわざ文字のあいだを縫う手際なんて、できるだけ町名を覆うまいぞとその心がけがひしひし伝わってきていじましいというか。。ところが惜しくも「町」のハネばかりは避けきれなかったらしく、あえなくシールがわずかに被っています。何とも遠慮深くも不器用で憎めません。

 

 

 裏面には「春日町コインパーキングリスト」なるものが。便利!

 

 

 今回のつばめどうさんのおかし。

 メープルと胡桃のビスケット¥250、苺のスノーボール¥240、アーモンドとクランベリーのビスコッティ¥250!

 

 ちなみに今月末にはまた弊店を会場にして「つんどく読書会」を予定しています。課題本は初めてのミステリ本『まるで天使のような』(マーガレット・ミラー、創元推理文庫)です。

 残席はあとわずかのようですが、ご興味のある方は主催のセンダイ自由大学さんまでお問い合わせ下さい〜。

第1回「かんがえる読書会」開くことになりましたー

  • 2018.09.15 Saturday
  • 13:21

 ようやく涼しくなり、秋めいてきましたね。近所にはもう金木犀の香りまで漂っています。かたや個人的には、長かった夏との別れをしみじみ惜しんでおります。。

 

 きのうは例によって「つんどく読書会」が弊店を会場に開かれました。今回の課題図書は遠藤周作の『悲しみの歌』。大戦の記憶が風化しつつある、70年代の新宿を舞台にした群像劇です。風俗の描写が無闇に戯画的というか劇画調というか、なんだか読んでるこちらが恥ずかしくなってくる始末(まぁ往時の大衆小説って概してそういうものなのかもしれなけれど)。。

 畢竟、作品としてはあまり出来のよいものとはお見受けできませんでした。そもそも主要なキャラクター(とくにガストン)がうまく機能しているようには思えませんし。。

 さりとて、液体のモチーフの扱いに限っては前作『海と毒薬』から一転していてとても興味深かったです。終始シーンを覆っている霧雨にしょっちゅう漏れでる尿や血液など、どれも海原のようには遠望もできず対象化もできないまま、ひたすらまみれるように身に纏わりつく描かれ方がされています。この生理的な厭わしさがいっとう印象に残りました。

 

 

 さて、隔月ペースの「つんどく読書会」とは別に、来月にはスピンオフ企画として「かんがえる読書会」というのを開いてみることにあいなりました。さしあたり地元ゆかりの哲学の本を読んでみようかと考えています。主催は同じくセンダイ自由大学さんです。

 第1回めはオギュスタン・ベルクの『日本の風景・西欧の景観』です。よかったらぜひ〜!

 

 かんがえる読書会

  日程:2018.10.19.fri

  時間:20:15-22:00

  会場:書本&cafe magellan(マゼラン)

  参加費:¥1000(コーヒーと焼き菓子付き)

  定員:6名

  お申し込みはセンダイ自由大学公式ホームページからどうぞ!

 

 最近こんなものも入荷しましたー。

 

 

 戦前は、明治から昭和初期にかけての地図です。あいにく東北地方はありませんが、関東から中国地方と、海を越えて奉天や平壌まであります。すべて大日本帝国陸地測量部によるもので、縮尺は大半が五万分一、二十万分一が数葉、奉天の一枚のみが百万分一です。価格はおもに¥500〜2000。よかったらぜひ〜!

 現在の在庫状況は以下のとおりです。

 

 東京 昭和2年(二十万分一)、広島 昭和8年、熱海 大正8年、甲府市 大正6年、横須賀 大正10年(二十万分一)、日光 大正10年(二十万分一)、宇都宮 大正15年(二十万分一)、高野山 昭和12年、奈良 大正14年、奉天 明治42年(百万分一)、岐陽 大正7年、平壌東部 大正7年、富士山 明治32年、高梁 昭和5年(二十万分一)、高山 大正4年、丹波 大正2年、男體山 大正4年、名張町 明治33年、船津 大正4年、長門峡 明治6年、三峰 大正2年、鹽山 大正4年、韮崎 大正4年、千頭 明治45年、鰍沢 大正4年、身延 昭和2年、上野(奈良) 大正14年、南部(山梨) 昭和2年、家山 昭和7年、赤石嶽 昭和7年、山上ヶ嶽 昭和7年、釈迦ヶ嶽 昭和7年、田邊 昭和11年、木本 昭和7年。

8月の営業につきまして

  • 2018.08.08 Wednesday
  • 17:00

 いつになく猛暑日ばかり続くと思っていたら急に肌寒くなりました。おまけに花火大会が雨振るなか決行されたり(火花と稲妻による光の饗宴!なんていうとすてきな気もするけれど、みなずぶ濡れだったみたい)、それどころか七夕中ずっと雨模様なんて初めてなんじゃないかしら。。なんだかこの夏は情緒もへったくれもありません。。

 とはいえ、基本的にうだるような暑さが好きなぼくには、8月の残り日が惜しくておしくて。フォーエバー夏な心境です。。

 

 閑話休題。

 さて、8月はもとよりお盆も例年どおり通常営業を予定しています。

 ただし火曜が定休なのでお盆まわりですと、8/14はお休みです。どうかくれぐれもお気をつけ下さいませ。

 

 ある読書会に向けて尾崎紅葉の『金色夜叉』に取り組んでいるのだけれど、どうしても喜劇としてしか読めず(めちゃくちゃ面白い)、往時の受容のされ方が気になっています。。

『マゼラン・マガジン』第5号できましたー

  • 2018.07.14 Saturday
  • 13:51

 気づけばもう5号でした。去年は臨時増刊号だったから足掛け6年めになります。案外続くものだなぁと我ながらびっくり。のんびり年刊というのが合っているのかしら。。

 店頭で配布してまーす。じわじわ市内各所でも置かせてもらえたらと考えています。

 

 『マゼラン・マガジン』第5号、高熊洋平、書本&cafe magellan、2018.7

 

 例によって、8コマのまんがをA4コピー用紙に印刷して四つ折りしています。

 今回の参照文献は九鬼周造です。彼の『偶然性の問題』を、ずっとむかし学生時代に面白く読んだ思い出があって、いつか扱えたらなぁとかねて心に留めていたのでした。とはいえ、選んだテキストは生前未発表のごく短いエッセイなのだけれど。まぁ彼の茶目っ気がよく表れた文章です。岩波文庫の『九鬼周造随筆集』に収録されている「音と匂 —偶然性の音と可能性の匂—」の一節。

 あと、サブテキストとして『歌うカタツムリ 進化とらせんの物語』も挙げさせてもらいました。進化をめぐる長いながい論争史の要所に決まって姿を現すカタツムリもさることながら、論争じたいが螺旋状の殻さながらに二大陣営の間を大きく行きつ戻りつ新たなフェイズへ移ってゆくさまは壮大にしてとってもチャーミングです。

 それから、当ブログで先に掲載していた映画評「『リズと青い鳥』について」(前編編)もおまけとして挟みこみました。まんがを描いているうちに問題意識が重なってきたものですから。まぁ参考資料的な位置づけです。

 

 

 当初は、台詞(ふきだし)とショット(描画)の、二つの独立した系の配分をどれくらいコントロールできるかなと着手したものの、仕上がってみれば久野遥子ショックが未だ拭えないなぁとしみじみ。カメラアングルは久野さんから距離を置こうとしてるし、陰影の綾は思った以上にうまく出せなかったし。彼女の『甘木唯子のツノと愛』を捲るたび溜息が漏れてしまいます。。あと思いのほかクリス・ウェアっぽいなぁ。正面性の強い建築のファサードとかフレームの端々に仕掛ける手管とか。。

 

 あ、そうそう、フリペといえばちょうど今、多賀城市立図書館でジン展をやっています。ぼくもさる火曜に拝見してきたのでした。

 野中モモさんとばるぼらさんの共著『日本のZINEについて知ってることすべて』をベースにして、1960年代から現在まで各所で配布されてきた様々なZINEが現物とともに紹介されています。地元ゆかりの品々も相当かき集められていて見応えがありました。

 手づくり感や当時の風俗が強烈というかうんと濃厚で、ちょっと官能的なくらい。ある特定の時空に縛られた個のあがきが透けて見えるかのような佇まいはなかなか魅惑的です。何度手にとりたい衝動に駆られたでしょうか。。(貴重なので展示物はみな保護され中味は見られない)

 残す期日はもうわずか、あさって7/16(月)までのようです。未見の方はぜひ!

 

 trip to zine 〜zineへの旅〜

  会期:2018.6.14 - 7.16

  時間:9:00 - 21:30

  会場:多賀城市立図書館 3Fギャラリー

 

 さて、脈絡かまわず久しぶりに古本屋らしく品出し情報をお送りします!

 最近まとまって入ってきたものたちです。もちろん他にもいろいろ仕入れてますよ。

 

 

 いずれも1978年にほるぷ出版から刊行された「複刻 絵本絵ばなし集」シリーズです。

 明治から昭和の始めにかけて手がけられた絵本や漫画の数々です。どれも味わい深いものばかり。ぜひ多くの方にご覧頂けたらと思います。

 画像に写っているタイトルの他にも在庫あります。お探しのものがあればお問い合わせ下さいね。

 

 

 アメリカの音楽雑誌"downbeat(ダウンビート)"です。1970〜80年代に出版されたものが70冊ほど入荷しました。往時の空気がひしひしと伝わってきます。

 一部500円。状態の芳しくない数部については300円にしました。お買い得ですよ。お見逃しなく!

 

 それから、第2・4土曜には焼き菓子つばめどうさんのお菓子が配達されます。

 きょう届いたのはこんな感じ。コーヒーによく合いますよー。

 

 

 仙台市文化事業団の広報誌『まちりょく』第30号(2018.4)に寄稿した、「仙台写真月間 2017」についての展評がウェブ上でも読めるようになっていました。タイトルは「仙台写真月間とじゆう」です。よかったらどうぞー。

 * 季刊「まちりょく」アーカイブ(第30号を選択の上64-65頁をご覧下さい)

 

 「月間」は今年も開かれる模様です。たぶん秋ごろでしょうか。今から愉しみ。

 

追記

 テキストだけこちらにも掲載しておくことにしました。

 本誌では会場風景や参加者など委細情報も記載されているので、ご興味をもった方はぜひそちらを!

 

「仙台写真月間とじゆう — 仙台写真月間 2017展評 —」

 

 自分たちの手で発表の場を作れないだろうか。そう望む有志4名のもと「仙台写真月間」は2001年に始まった。以来ほぼ途切れることなく毎年開かれている。

 

 参加者は割合流動的で年ごとに募られる。大概しばらくぶりの古参や初参加も入り交じり風通しがよい。ただし公募はしておらず、そのつど参加経験のある者が興味ひかれる作家に声をかけるのだという。だからせいぜい10名を越さない。互いに顔を確かめられる距離感がずっと守られている。

 

 例えばパリや東京などよその「写真月間」が街や企業を巻きこむのとは対蹠的だ。地域ぐるみではなく、地域の中にあってなおあくまで個と向き合える環境が目指されているようだ。

 この傾向は当初から個展の形を崩さない一貫した姿勢により顕著だ。グループ展は極力閑却される。さりとて相互の干渉が敬遠されるわけでもない。むしろあえて会場を分けて同時開催が仕組まれる。個展どうしをぶつけるのだ。

 

 個々の作家性を尊重する傍らかえって個別に閉じてしまわないよう、互いに緊張感を促す配慮が見てとれる。

 風呂敷を無闇に広げたり、逆に閉じすぎることはつとに注意深く避けられてきた。もとより身の丈を見据えた処世術でもあったろう。だがそれにもまして自由を担保する意味合いが勝っていたのではないだろうか。

 予め余計なしがらみや我執を防いだうえでいかに自由を失わずに、個々の表現とさし向かえるか。十数年の歩みは繰り返しそう問い続けているように思われる。

 

 発足後間もなくは同じような写真ばかりだと揶揄されたこともあったらしい。実際にも参加者の多くが黒白のスナップで身近な郊外を写していた。

 それが回を重ねるたびにある者はカラーへ移行し、別の者はコンセプトを重視し始める。次第に方向性が浮き彫りになり互いの異同がはっきりしだす。個展を通して自他を見つめ 直した賜物だろうか。

 

 わけても2005年から加わった花輪奈穂が目をひく。従来のオーソドックスな展示から一転し、今展では支持体を透明なアクリル板に代え宙で群れをなすように吊っていた。どれか1点と正対すると必ず他の写真が目を斜に掠める。かつまた奥の写真が多重露光さながらに透けて見える。焦点を結びづらいばかりかむしろ周辺視野こそが活気づく趣向だった。

 被写体はいつもどおり日常の他愛ない断片だ。意識にのぼる手前であえなくこぼれ落ちてしまうようなイメージの数々。意識の縁に揺れるその危うさを新たな手法は的確に掬いとっていた。これまでの彼女を顧みるにつけ至るべくして辿りついた成果に違いない。

 

 今回名を連ねたのは彼女も含めて経験者が4名と新規が3名、そこへ初めて外部から作家を招き2名が加わった。かたや「写真月間」と直接には無縁の寺崎英子が遺した写真を、小岩勉がキュレートしていたのは新鮮だった。2013年から続くゲストを交えたトークイベントも6回もたれ、いつにもまして活気が溢れていた。(了)

『リズと青い鳥』について(後編)+ 2018.6.7 追記

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:49

 本題前にまたもお知らせをひとつ。

 

 仙台発の月刊誌『りらく』の今6月号で弊店を取り上げて頂きましたー。特集「本の世界に遊ぶ 雨の日は図書館、ブックカフェへ」のページです。

 取材して下さった記者さん方に感謝です。ありがとうございました!

 

『りらく』第20巻11号(りらく編集部、プランニング・オフィス社、2018.5)

 

 閑話休題。

 

 映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想、その後編です。

 これで完結します。

 なお前編はこちら

 

 仙台ではMOVIX仙台でロングラン中のようです。おすすめ、、というかぜひ色んな方に見てほしいなぁ。

 先々にはきっと山田監督の代表作になってゆくだろうと思います。けれどそれにもましてアニメなり映画の歴史に何らかの足跡を残さずには済まさないんじゃないかしら、そう思わせられるくらいに傑作です。観ておいて損することはまずないはずです。

 

* 2018.6.7追記

 時おり愉しく拝見している千葉雅也さんのtwitterで、とても共感するご発言に出くわしました。拙文を書いている間ずっと感じていた問題意識がズバッと明晰に語られていたので、うぉっとつい唸ってしまいました。。

 

 例えば、、「解釈」の機能しないこの世界において「虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるか」。つまり、相互理解そのものはおろか、その不可能性さえもがもはや問題たりえない現代において、それでもなお関係を紡ぎうるとしたらどんな形がありうるのか。『リズ鳥』がその回答のひとつを示しているように思われたわけです。

 蛇足ながら、、たぶん土居伸彰さんが「私たち」という、理論的にはかなり緩い言葉でフォーカスしようとしている問題(特にご著書である『21世紀のアニメーションがわかる本』で説かれている)もこの辺りにあるのだろうと踏んでいるのですが、どうでしょうか。。

 

 せっかくなので、一連のtweetを引かせて頂きます。

 それはそうと、どうやら千葉さん新著をご準備なさっているようです。今後のお仕事がますます愉しみになりました。

 

 ポスト・トゥルースとは、一つの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えば、別の世界同士の争いだ。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。他者はすべて、別世界の住人である。(2018.6.5)

 

 ポスト・トゥルースとは、真理がわからなくなってしまった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりである。そうなると、バラバラの事実がぶつかり合うことになる。(同上)

 

 マルクス・ガブリエルの新しい実在論はおそらくこの状況を言っている。僕はガブリエル評価を改めようと思う。(同上)

 

 付言すれば、ドゥルーズ『意味の論理学』で言う深層とは、ポスト・トゥルースの状況だろう。(同上)

 

 階級闘争とは、世界の解釈の争いではない。異なる事実と事実の争いである。(同上)

 

 そうか、ドゥルーズ&ガタリの精神分析批判って、解釈をやめろ、ということなんだ。それはポスト・トゥルース化に他ならない。異なる諸事実が並立する状態に入ること。それが「分裂分析」なのか。(2018.6.6)

 

 そしてサントーム論に向かったラカン(松本卓也さんが紹介するような)も、ドゥルーズ&ガタリと同じくポスト・トゥルース的人間について考えたのだ、ということになる。(同上)

 

 『ラカニアン・レフト』が不満なのは、様々な政治闘争を接続する虚のトポスを活用しようという話になってるからで、それってファリックじゃないかという疑問を持つ。他の享楽側へと行ったら、諸々の闘争はバラバラになるはずで、それらを虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるかが問題なはず。(同上)

 

 

***

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

(承前)

 

3 斜交う誤配

 

 明察を得たみぞれは、全体練習の場で才能を遺憾なく爆発させます。ソロパートを圧倒的な表現力で奏でるのです。彼女なりに希美との相性を立証するための熱演でもありました。ところが、皮肉にも希美に対しては実力の差を突きつける結果を招きます。打ち拉がれる希美は途中で投げ出すわけにもゆかず、みぞれの音に追いすがるのが精一杯です。やっとの思いで吹き終えても、人目を忍んで席を外してしまいます。

 生物室 (★5) まで追いかけてきたみぞれが声をかけようとすると、希美は泣き腫らした目許を取り繕うかのように言い放ちます。「みぞれはずるいよ」。劣等感や虚栄心、憧憬など鬱積する本音が堰を切って捲し立てられます。

 みぞれももどかしさのあまり声を荒げずにいられません。吹奏楽部へ誘ってくれた事の始めにまで遡りながら、募る想いの丈を吐露します。楽器を続ける理由さえ、希美と一緒にいるためでしかないと言って退けるのです。挙げ句希美の胸へ飛び込むなり、畳みかけるように相手の「好き」な点を数え上げます。足音や髪、話し方、それから皆と仲良くできるところ等々。

 それに引き換え、希美は自分が勧誘したことすらよく覚えていません。あまつさえみぞれの抛る訴えは、どれ一つとして希美の琴線には触れません。クローズアップされた希美の瞳は、抱きつくみぞれの頭越しをただ虚ろに見つめるばかりです。さりとて耳に届いていないわけでもなく、間違いなく意識を傾けています。みぞれの言葉に応じて瞳が小刻みに震えるからです。

 なぜ希美の心が動かないのか。みぞれを宥めた後、ぽつりと洩らされる返答に一切が凝縮しています。「みぞれのオーボエが好き」。

 

 顧みればパート練習で場所を違えていても、みぞれの音が画面外から鳴るたびに必ず希美は耳を傾けていました。彼女は演奏そのものに惚れていたのです。だから逆にその敬慕する奏者から聞き出したかったのは、自分の音を認めてくれる証しだったに違いありません。「希美のフルートが好き」と。それなのに、みぞれが乱れ撃った数多の「好き」の中にはついに含まれていませんでした。希美にとっていわば無能宣告にほかなりません。先の実演に続き、みぞれは図らずもだめ押しを加えてしまった恰好になります。

 他方みぞれにとってもいわずもがな、希美の返答は必ずしもかけてほしかった言葉ではありません。むしろ正反対を意味します。希美は畢竟、みぞれ自身が望むようには丸ごと求めてくれるわけではないのですから。

 二人の「好き」は絶望的なまでにすれ違い、伝えたかった真意は互いに何ひとつ届きません。けれど一連のやりとりは、彼女らの思惑から外れて予想外の宛先を切り拓きます。

 

 まず希美が一方的に話を打ち切り、お茶を濁すように独り廊下へ駆け出します。すると歩いているうちに、初めてみぞれに呼びかけたときの情景が甦ってきます (★6) 。そして、何ごとかを仕切り直すかのように深く長い吐息をつくのです。上達したみぞれに気をとられるあまり、楽器を吹いていなかった素の彼女を忘れていたのでしょうか。それに気づきあたかも初心に返れたかのようなモンタージュです。一から関係を再構築してゆこうと、吹っ切れたような表情を見せてシーンが変わります。幕切れには「みぞれのオーボエを支えるから」と宣言することにもなります。

 みぞれも最終的には、たとえ独り音大へ進学してもオーボエを続けると断言します。オーボエは当初、希美と離れないためにこそ必要とされていました。それがかえって、希美から自立するための媒介を担い始めるのです。希美が「全て」だったかつてのみぞれは、さしずめ母子未分化な赤ん坊のような存在でした (★7) 。オーボエはさながら、乳房のように母たる希美と分かちがたい閉域を作っていました。そこへ例の希美の一言が亀裂をもたらしたのです。みぞれは言外の含みを汲みとれないまま、字義通りに受けとります。希美が「好き」なのは私の吹く楽器であって私ではない。つまり私は希美と一つになれないし、オーボエと希美は一緒くたにはできないのだと。オーボエは希美の手から離れ、その価値は彼女が示唆を与えたものという象徴的な意味合いへ切り下げられます (★8) 。反面オーボエそのものがもつポテンシャルを開示することにも繋がります。希美との今ここに呪縛されていたみぞれの時間が、オーボエの放たれた未来へと動き出すのです。

 

 交わされた言葉は話し手の意図から逸れて、別の何ごとかを聞き手に届けてしまいます。そして実は聞き手もまた、自分が受けとった何ごとかを未だ明晰には呑み込めていません。初対面の記憶やオーボエの存在は、未規定なまま単に突出しているだけです。それにも拘らず、彼女らは触発されるがまま踏みだします。意味の理解を差しおいて、言葉の働きかけに身を開くのです。たとえボタンを掛け違っていてもかえってそこから生まれる別の作用を尊重し、いっそ未来への布石に転じてしまうこと。

 もし意味に囚われていたなら、何もかもが従来の執心へ回収されてしまい、関係は泥沼化するほかなかったに違いありません。リズの理解に苦しみ、手詰まりに陥っていたみぞれの姿が思い起こされます。しかし二人は既に、視点の転換を通して事態を相対化する経験を積んでいます。既定の意味に拘る謂れはもはやありません。膠着していた関係が定かならぬ未来へ向けて解きほぐれてゆきます。おそらく初めて彼女らは、過去に縛られることなく相手を自由な個として見出だします。先述しておいた最後のツーショットはその成果を讃えて余りあるでしょう。

 さりとてみぞれにとって希美が特別であることは依然変わりませんし、希美にしてもそれに応えられるよう趣味嗜好が変わったわけではありません。まして「特別」の意味を心から理解できる余地はまずなさそうです。彼女らはきっと、まかり間違っても愛の成就なり破局など意味を共有しうる間柄には至らないでしょう。ちぐはぐな応酬を繰り返しては誤配を重ね、斜交う関係をどこまでも続けてゆくのではないでしょうか。全一とは無縁な絶対的な断片なのです (★9) (了)

 

 

【注】

 

 5

 人づきあいの不得手なみぞれにとって、生物室は独り静かに佇める聖域です。飼育されているフグによく餌をやるシーンは、人里離れて動物を餌づけするリズの森さえ彷彿とさせます。けれど他方では、心地よいからこそ閉じ籠ったままの現状を招いてもいます。無自覚ながら自由が封じられているのです。生物室はまるで鳥にとっての籠さながらです。

 いうまでもなくこの両義性は、みぞれが抱えこむダブルバインドのメタファーです。希美に執着するあまり彼女との関係、そして演奏さえも膠着させてしまうのですから。ゆえに、みぞれの転機は決まってこの特権的なトポスと連関して生じます。

 ひとつめは「視点の転換」です。くだんの教員がここを探し当ててくれたお陰で起こりえました。彼女は本編中初めての生物室への侵入者でもあります。

 もうひとつはこれから拙文で論じることになる、籠の解錠に相当する出来事です。希美と繰り広げる応酬が、やがてみぞれの自立を帰結します。じつは、希美が生物室を訪ねたのもこれが初めてです。かねてフグに餌をやってみたいと調子を合わせていた割に、その後一向に素振りすら見せなかった彼女だけに事の重大さは推して知るべしです。

 

 なお、籠のメタファーが当てはまるのは、あながち生物室だけではありません。音楽室や普段づかいの教室それから廊下も含めて、学校全体がさも鳥籠であるかのように演出が凝らされています。というのもサッシがグリッドに仕切る向こう側を、あまりにも頻繁に鳥たちが飛び回るからです。明るい外を自在に滑空する鳥は、薄暗い屋内の閉鎖性を逆照射します。校舎を覆うサッシはあたかも籠の網の目です。

 学校という特殊な閉域がまざまざと縁どられることで、かえってその外部が痛切に意識させられます。生徒らの行く末です。遅かれ早かれ旅立たねばならないものの、杳として見透しの利かない未来が本作の裏側に貼り付いています。

 

 ところで、結末を除きただ一度きりカメラが校外へはみだすシーンがあります。みぞれに張り合ってつい音大受験を宣言してしまった希美が、逡巡しはじめる矢先のことです。夕暮れに彼女は独り小高い丘へ赴き、町を一望するのです。後ろ姿を引きで抜くカメラはそこが東屋(すなわち籠です)であることを明かします。

 校舎を抜け出てもなお希美は籠の中の鳥でしかありません。彼女固有の痛ましさが滲みでているシーンです。なぜなら、希美の逃げ場が学校のどこにも存在しない事実を露呈しているからです。ひょっとしたら生物室を保険にもつみぞれの方が、むしろ恵まれているとさえ言えるかもしれません。

 希美は人づきあいをそつなくこなしているかに見えて、実は素顔を曝せない質なのです。みぞれに対するわだかまりを鬱積させていた希美の姿が偲ばれます。

 

6

 このシーンは色を飛ばして、現実の絵柄と差別化されています。かたや冒頭のみぞれによる同じ過去の想起でも、やはり明度が高めに設定されていました。しかしタッチが異なります。先行のフラッシュバックでは絵本の朗読とモンタージュされていたせいか、よりファンタジー寄りにデフォルメされていました。もしかしたら、みぞれの方が思い出に夢を抱いていることの証左なのかもしれません。おまけに台詞も若干違います。希美の記憶では「帰宅部」という露骨な表現が飛び出します。

 

7

 みぞれの幼児性はしきりと髪に触れる習癖によく表れています。何かしら感情が動くときだけでなく、手持ち無沙汰の折にも決まって髪を手で撫でるように梳きます。

 興味深いのは、はじめて希美に声を荒げる際には髪ではなくスカートを両手で強く握っていた点です。強いていえば幼児性からの離脱、少なくとも何らかの異変が見てとれます。

 

 もう一点、冒頭で校門から音楽室へ向かう途中、先をゆく希美が下駄箱の角にすっと手を沿わせるカットがあります。後に続くみぞれもさり気なく同じ角に手を沿わせて先を急ぎます。一瞬の仕草とはいえ、希美を慕う気持ちとあわせて接触に偏執する習癖まで仄めかす秀逸な演出でした。

 

8

 ラカン派精神分析の術語でいえば「疎外」と「分離」による二段階の去勢が執行されているわけです。先述した視点の転換はここでの「疎外」の雛形になっていました。そしてオーボエは「対象a」です。その導く先には、より高度に抽象的な音楽の世界とともに業界の道理や秩序さえもが待ち構えているでしょう。

 その伝でいけば、一面ではみぞれは象徴界へ参入し、希美は軽い神経症から癒えたとも言い直せます。しかし肝心なのは、それにも拘らず逸脱を余儀なく繰り返す二人の軌跡です。言葉に別な作用を見出だしては関係を更新し続ける応酬は、精神分析というよりかフェリックス・ガタリの唱えていた「スキゾ分析」に近しいのかもしれません。

 

9

 少女らの絶対的な断片性を「実在的対象」として捉えれば、グレアム・ハーマンの唱える「オブジェクト指向実在論」の絵解きとして見立てられるかもしれません。例えば二人は互いに「脱去」しあっており、絶対に分かりあえない。にも拘らず初対面の記憶やオーボエなど「感覚的対象」を通して魅惑され、間接的に関係(代替因果)を築ける、とか。全然関係ないけれど、ハーマンってアニメを見たりするのかしら。。 

『リズと青い鳥』について(前編)

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:06

 本題前にお知らせをふたつ。

 

 1ヵ月余りにわたって開催した三人展「本当に思い出せなくなる前に」が、お陰さまでおととい無事に終了いたしました。

 ご覧下さった方々にあらためて感謝を。ありがとうございました!

 そして、作家さん方にもお礼と労いを。おつかれさまでした!

 久しぶりに店内を目いっぱい使った展示だったせいもあり、会期中はいつにもまして愉しく過ごさせて頂いたのでした。。

 

 それから、、佐藤ジュンコさんがまたまたまんがを上梓なさいましたー。

 仙台を中心に、彼女が食べ歩き散らかしてきたドキュメントです。

 弊店もちょこっと登場します。

 店頭で販売してますので、よかったらお手にとってご覧くださいまし〜。

 

『佐藤ジュンコのおなか福福日記』ミシマ社、2018)¥1,500+税

 

 閑話休題。

 

 予告どおり映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想をまとめておきたいと思います。

 最後に観てからもう1ヵ月も経っのに、鳥がまだ頭の周りをぐるぐる旋回しています。やばいです。。

 

 やや長くなったので、2回にわけて掲載します。

 なお後編はこちら

 

 本作は仙台でもまだロングラン中みたい。MOVIX仙台です。おすすめですー!

***

 

 0 はじめに

 

 

 ある高校の吹奏楽部を舞台にしたテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』(2015-16放送)という群像劇のスピンオフ作品です。物語の時系列としてはテレビシリーズの延長にあたりますが、監督もキャラデザも刷新されておよそ独立した作品に仕上がっています。

 テレビシリーズでは巧みな構成と細やかなキャラクター設定が駆使され、複雑な人間関係が編まれていました。しかも部員らの相当微妙な内面にまで踏み込みながら、決して物語を停滞させることがありません。コンクールへ直進する推力を支えに、数多のサブプロットを語り切るのです。いくつもの支流を抱えては奔流する大河のような作品でした。

 一方『リズ鳥』はというと、さしずめ水たまりのように小さく狭い間柄に的を絞ります。数十名いる部員のうちたった二人の、本来なら端役に過ぎなかった少女どうしの交友です。そのうえ筋肉のわずかな強ばりや目許のかすかな震えなど、より一層ディテールへ寄り添うのです。明快なフルショットの手合いは極力避けられます。遠目には凪いで見えるやりとりの端々に、小波のような感情の揺らぎが炙り出されます。その多様なニュアンスを丹念に積み上げてゆき、絶妙に移ろう関係性を階調豊かに浮かび上がらせるのです。

 ともあれシナリオの比重が大きかったテレビシリーズからは一転し、『リズ鳥』ではディテールの描写(音や台詞の間合いも含めて)とそのモンタージュへ力点を移すのです。これはナレーションの撤廃にも顕著です。テレビシリーズでは、主人公久美子による回想口調が物語にサスペンス調の安定したパースペクティブを開いていました。ところが、モノローグの類いを一掃する『リズ鳥』には見通しよい観点がありません。あまつさえ少女らは口数が少ない。内気なみぞれはいうに及ばず、快活な希美も気風よいが故に余計なことを口にしません。俄然ショット一つひとつが際立ち、画面への注視が促されます。

 もとより、ディテールの作画はテレビシリーズでも急所のひとつでした。まして山田監督といえばちょっとした仕草、わけても足の演技の手練です。ただ従来まではいくら優れた演出だろうと、あくまでシーンに厚みをつけ足す手段でしかありませんでした。それが『リズ鳥』では、断片であるそのこと自体が主題のアレゴリーたりえています。

 ひとつには才能や佇まいなどキャラクターの一面に過ぎないまさに断片が、相手を翻弄する重要な役を担っているからです。けれどそのためばかりでなく、そもそも彼女らじしんが相互理解も叶わずめいめい断片に留まるほかない存在だからでもあります。理解しあうことのないまま、それでもなお新たに関係を紡いでゆく姿を示して作品は幕を閉じます。断片たることは、否応なく孤絶を意味すると同時に関係を結ぶ条件でもあるわけです(★1)。いうまでもなくこれは、映画そのものにおけるカットとモンタージュの謂であり、なおかつそれらを懸命に追う観者の含みでもあります。

 本作の要がディテールにあることは疑う余地がありません。さりとて、単にその精妙さを愛でるだけでは片手落ちを免れません。美しさに見とれて、断片がもつポテンシャルを遺棄してしまうなんてあまりに惜しい。その過剰さは美の予定調和に収めきれるものでは到底ないはずです。

 以上を踏まえたうえで、これからはあえて愚直にシナリオを追ってゆくことにします。まずは主題上の断片性を確認しておくに如くはないでしょうから。もとより、あまりにディテールが豊か過ぎてアプローチを絞るのに難儀だからでもありますが。。

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

 

1 冒頭と結末のコントラスト

 

 本編の幕は、みぞれと希美の登校するシーンによって上がります(★2)。そして幾日かの練習風景を跨いだ後、やはり彼女らが下校するさなか下ろされます。数週間にわたると思われる経過が、まるで一日の顛末さながらに構成されています。ミニマムに仮構された時空は余計なものごとのつけいる隙を断ち、移ろいゆく二人の軌跡を鋭く浮き彫りにします。冒頭と結末がなすコントラストは、その推移をひときわ鮮やかに示してくれます。

 かたや、早朝に校門で待ち受けるているのはみぞれです。遅れて希美が合流し音楽室へ向かいます。他方、放課後の校門には希美が控えています。本編を挟んで二人の位置が反転するのです。いったい何があったのでしょうか。

 歩調は相変わらずです。何時いかなるときも希美が颯爽と先陣を切り、みぞれが頼りなげに遅れをとります。会話のちぐはぐさも本編の前後で大差ありません。二人の個性は終始変わらぬままです。

 カメラワークから察するに、変化が窺えるのは二人の関係です。冒頭で著しかったのは、希美の一挙手一投足に目を奪われるみぞれの主観ショットでした。対して結末を飾るのは、歩行中の二人を初めて正面から押さえたバストショットです。望遠レンズの圧縮効果によって手前と奥が詰められ、二人を画面に斉しく収めます。

 当初一方的に過ぎた執着が本編を経て氷解し、対等な友情に立ち至れたかのような赴きです。おまけにカメラが校外へ踏みだすシーンはこれを措いておよそ皆無であり、開放感がいやまし強調されています。

 

 

2 関係の交換可能性

 

 関係に変化が生じた発端は『リズと青い鳥』という絵本です。リズという孤独な少女のもとへ、彼女を案じた鳥が女の子に化けて現れるという筋書きです。

 これに取材した同名の楽曲が、来るコンクールの自由曲に選ばれます。そして目玉の第三楽章では、二人のソロが懸け合うことになるのです。しかも語られる内容が、彼女らの因縁とあまりに重なり、絵本は少女らを写す鏡の役を担いだします。

 当初は過去と性格に符合することから、何ら疑いなくみぞれがリズに、希美が鳥に自らを投影していました。

 というのも内気で孤立していたかつてのみぞれに、思いがけず声をかけてくれたのが希美だったからです。入部の勧誘に過ぎなかったはずのこの一件は、しかしみぞれにとっては恩寵にほかなりませんでした。爾来、希美はみぞれの「全て」になります。

 ところが、中盤を過ぎるなり投影先が覆ります。こんどは現状と能力に照らして、みぞれが鳥を、希美がリズを再発見するのです。

 絵本の佳境では、リズが未練を押し殺して鳥に旅立ちを迫ります。というのも一緒に暮らす幸せが、その想いとは裏腹に鳥を地上に縛りつけることにしかならないと悟ったからです。

 希美の喪失を何より恐れるみぞれには、これが受け容れられません。リズの理解に躓くみぞれは、演奏すらままならなくなります。そこで見かねた教員が、視点の転換を促します。するとリズとの同一化を弛めた途端、みぞれはたちまち事態の明察に達します。リズの提案は、鳥にとってもきっと堪えがたかったはず。けれどリズが願うのなら、それに応えることこそ愛に報いることなのではないか。鳥が涙をのんで決意する、その胸中をしっかり汲みとるのです。

 かたや希美はというと、次第にみぞれに対するわだかまりを隠しきれなくなります。みぞれに期待を寄せる教員が決定的でした(★3)。みぞれには音大を手厚く勧める一方、希美には人並みな対応しかしてくれないのです。これを機に今までは無自覚だったものの、ずっと複雑な澱を溜め込んでいたことが痛感されます。羨望に嫉妬、屈辱感。相手に執着していたのは自分の方ではないか。リズの姿が他人事ではなくなります。なぜなら、実際に別れを切りだす前のリズも鳥に執心するあまり葛藤を抱えこんでいたからです。

 二人はともに、新たな視点を手に入れ認識を改めます。さりとて、現実に何かを為し遂げたわけでは無論ありません。ただ観念的に関係を相対化できたに過ぎません。

 そもそもみぞれの場合、鳥の気持ちはさておきリズについては単に黙殺しただけです。それどころか自分の判断を相手に委ねている点からして、希美に依存する体質は変わらぬままです。

 希美も同様に、才能の格差を身にしみて思い知ったわけではありません。まして、克服なんてしようがありません。

 それに、以前の視点が無効になる謂れも殊更ありません。認識の上だけでなら、視点の転換は難なくこなせます。要は、みぞれも希美も互いにリズでありかつ鳥でもありうるのです(★4)。肝心なのは正しい自己像を探し当てて確定することではなく、確定的に思われた自己が他でもありうるという可能性です。この有余が、やり直しの利かない現実を受けとめる素地を整えます。

 ちなみに、もし有余なしに現実と直面する羽目になったとしたら、相応のリスクを伴うはずです。例えばテレビシリーズでは、希美がみぞれの前から忽然と姿を消した結果みぞれはノイローゼに陥ってしまったのでした。(つづく)

 

 

【注】

 

1

 本編の冒頭と結末にはぞれぞれ「disjoint」と「disjoint」という単語が、カリグラフィー(所謂シネカリ)風にアニメイトして挿入されています。「disjoint」とは授業のシーンでもさりげなく触れられる通り「互いに素」の意味です。おそらく含意として「ばらばらになる」などが込められていそうです。接頭辞が掻き消される後者であれば「つながる」でしょうか。いずれにしろ「断片」の境位そのものを示していると考えられます。

 

 ちなみに、カリグラフィーの技法といえばノーマン・マクラレンの『線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)がよく参照されます。当該箇所もご多分にもれず、まず間違いなく彼へのオマージュです。なにしろ『即興詩』のモチーフからして赤と青の二羽の鳥なのですから(厳密には赤と緑。補色対比のためかと考えられる)。拙文では後に論じるとおり『リズ鳥』もまた青い鳥と赤い少女の物語なのです。

 

 

左から線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)、『隣人(Neighbours)』(1952)

 

 じつは山田さんの前々作『たまこラブストーリー』(2014)のエンディングもやはりマクラレンの『隣人(Neighbours)』(1952)を換骨奪胎したパロディになっていました。後者は冷戦下における米ソの対立わけても朝鮮半島の情勢を、ピクシレーションを駆使した滑稽なモーションによってブラックユーモアに仕立てた作品です。彼女はこれを、ライバル店どうしの子どもたちが繰り広げる恋物語に転用するのです。『隣人』でお隣との媒介役を果たしていた花が、『たまこ』では林檎へ置き換えられてさらにフェイクとリアルの2種に分裂させられます。

 ともあれ、山田さんがマクラレンなりNFB(カナダ国立映画制作庁)、もしくは実験アニメーションの系譜に相応の関心をお持ちなのは作品からひしひしと伝わってきます。それと日本の所謂アニメとの関連をどんな風に捉えていらっしゃるのか興味が尽きません。

 

2

 本作は直ちには本編へ入らず、作中絵本の導入部から始まります。ある少女が動物たちにパンを分け与えているところへ、青い鳥が舞いおりてはすぐさま飛び立ちます。彼らにとっては初めての出会いです。これはみぞれと希美の起源を象徴するとともに、直後に継がれる本編冒頭の雛形にもなっています。鳥を見上げる少女の仕草も含め、本編でもう一度反復されるのです。みぞれの待つ校門に希美が落ちあい、然るのち希美の拾い上げた青い羽根をみぞれが見上げます。作中鍵となる図式への巧みな誘導が見てとれます。不動の(待つ)存在=見上げる=リズ=みぞれ/動く(訪れては去る)存在=見られる=鳥=希美。

 

 本編自体の滑りだしは、歩くみぞれのローファーを真横から追う長回しです。まさに「断片」によって幕が開きます。そしてカットをいくつか挟み、おもむろに希美の靴音と劇判が絡み合いだしては束の間のミュージカルが浮かび上がります。歩調の映画であることがはっきり印象づけられるシーンです。

 

 ところで同じ歩行をモチーフにしたアニメに、ライアン・ラーキンの『Walking』(1968)があります。作画と音作りを擦りあわせながら同時に進行した点でも符合します。ところが歩行そのものの捉え方は対蹠的です。

 

『Walking』(1968)

 

 序盤しばらくは立ったままの雑沓が大半を占め、カットバックで彼らの視線の先に歩行者がひとり示されます。ベランダから俯瞰された大写しの全身像です。パースに沿って視線が自ずと足もとへ向かいます。さりとてこの後も足を強調こそすれ、「断片」として切りだすことはまずありません。あくまで全身運動として描かれます。

 加えて不調和なリズムが前景化することもありません。次第にアングルを変えながらペースの様々な歩行者が画面を駆け巡ります。けれど構図が的確なせいか、リズムの差異が全体へ溶けこんで見えるのです。強いていうなら、ラーキンは数多の通行人を観察しては消化して一つの合奏に仕立てています。それに引き換え『リズ鳥』の照準は、歩行の不調和へ向けられています。

 

 あるいは足を主題化したアニメといえば、新海誠さんの『言の葉の庭』(2013)が記憶にも新しいでしょうか。男子高校生と女性教師が互いに「自分の足で歩けるようになる」までの、要は自立するまでのお話です。逆にいうと「歩けるようになる」以前の顛末なので、そもそも歩行中のカットが少ないうえに並んで歩くシーンさえなかった気がします。

 

『言の葉の庭』(2013)

 

 さりとて貴重な足もとのショットを顧みるにつけ、水溜りを踏んだり光が射したり環境を反映する役を割り振られていたのが印象的です。もしくは佳境で足のサイズを測ったり、裸足のまま駆け出したりします。いずれにしろシーンの下支えに徹するのです。かたや『リズ鳥』の場合は下支えもちゃんと果たすとはいえ、それにもまして歩行そのものが「断片」として突出してきます。

 これに限らず、新海さんと山田さんはあらゆる点において対称的です。前者は広角レンズで目いっぱい光を取りこんでコントラストを強調します。キャラクターの心情なり境遇を広大な風景に託すためです。

 対して後者は望遠レンズで若干アンダー気味にしっとりした絵作りを心がけます。静かな風景と動くキャラクターに絶妙な間を保ち、相対的に風景を自立させるのです。なおかつ画角の狭さはキャラクターの視野の狭さに重ねられます。または疑似ドキュメンタリーのようなあざとさは避けながら、視野をふわふわ揺らせたりもします。

 

3

 教員の件とは別に、希美を揺さぶるサブプロットがもうひとつ描かれています。みぞれとその後輩による交流です。休日に遊ぼうと希美がみぞれを誘うシーンが2回あり、そのつど他に呼びたい人がいるか確認します。最初はいないと返答したみぞれが、次の機会には後輩も誘いたいと申しでるのです。

 希美を正面から逆光気味に押さえるショットに、画面外から当の申告が被せられます。不意に画面手前を他の生徒が横切り、希美の姿が一瞬隠されてすぐ現れます。すると屈託なかったはずの表情に微妙なニュアンスが差しているのです。みぞれに対する保護意識なのか独占欲なのか、いずれにしろ無意識の出し抜けな漏洩が澱の存在をはっきり告げ知らせてくれます。

 

 ところで、山田さんは割合ジャンプカットを多用しますが、カットを繋ぐ素朴なモンタージュにはよらず、今回のように一連の演技として成立させるのは初めてのような気がします。周囲が変わらないなか希美の心境だけが急変するシーンなので、風景の連続性と心境の不連続を両立させるための工夫なのでしょう。かりに素朴なジャンプカットを採用していたなら、後者ばかりが迫りだし前者が犠牲となって事前と事後の比較に過ぎない薄っぺらな書き割りにしかならなかったのではないでしょうか。連続する風景こそが急変する心境の孤絶を際立たせ、重みのある表現を結実させています。

 

 ちなみに、みぞれと後輩のサブプロットは希美を動揺させる返す刀で、メインプロットの二人をも照らしだします。というのもみぞれの無愛想にもめげず健気にアプローチを繰り返す後輩の姿は、とりもなおさず希美への叶わぬ想いを秘めるみぞれ自身にほかならないからです。やがて親しくなった暁に二人きりでオーボエを奏でる光景は、みぞれが思い描く希美との理想像にほかなりません。そのうえ次第に深まる後輩との絆は、図らずも新たな人間関係を形成する雛形にもなっています。自立の助走さえ兼ねているのです。

 特筆すべきは、あるサブプロットがメインプロットへ絡んでゆく経路の重層具合です。この手のサブプロットがいくつも仕組まれています。図書室でのやりとりや部長と副部長のかけ合い、あるいは絵本の少女と鳥等々。どれもシーンの密度が異常に高いのです。

 

4

 交換可能性の暗示は、じつは既に冒頭からディテールのそこかしこに鏤められていました。

 先述した青い羽根は拾われるなりすぐさまみぞれに渡り、以後ずっと彼女が携えることになります。かたや絵本では、リズが髪飾りにと鳥に赤い木の実を挿してやります。すなわち、与える者=希美=リズ/与えられる者=みぞれ=鳥という図式が浮かぶのです。そもそも担当パートからして希美のフルート=リズ/みぞれのオーボエ=鳥です。

 それなのに、作中の二人が逸早く感情移入する先は逆さまでした。希美=鳥/みぞれ=リズという具合に。

 

 もしくは色の象徴系によれば、現実と絵本の照応のみならずリズと鳥、そしてみぞれと希美の取り替えすら仄めかされます。青い鳥に赤い木の実を挿すというのは、端的にリズの赤と鳥の青の混在を意味します。というのもリズが赤いスカートを穿いているからです。あるいは青い羽根を所有するみぞれが赤茶の瞳なのに対して、希美は赤い腕時計を身につけており瞳は青みを帯びています。

 さらに終盤になるとよりいっそう露骨なイメージカットが現れます。画面中央に水気を含んだ赤と青が打たれ、次第にじわじわ浸透しあうのです。

 要所に登場するデカルコマニーのイメージカットもこの系列に連ねられるでしょうか。インクを垂らした紙を一度折り、左右対称な鳥の模様を生みだします。これが羽ばたくようにアニメイトされるのです。一羽の中に左右二つのイメージが折りたたまれているわけです。力加減によって生じる微妙な対称性の崩れが効果を上げています。

 左右反転といえば、二人の転機に決まって挿入されるパラレルモンタージュ(正確にはクロスカッティングとマルチスクリーンの合わせ技)も忘れられません。場所を違えた少女らを同時並行で対照しながら描くのです。しかも転機が訪れるのは2回きりなので、この手法を使ったシーン自体がデカルコマニーさながらの対称的な構成に仕立てられていました(この徹底のありようったら。。)。

 なお最後のパラレルモンタージュには、左右に揺れるみぞれの長い髪がそっと挟まれていました。たぶん本編中唯一のカットです。

 本来なら、振り子状のモーションは快活な希美にこそ似つかわしいはずです。例えば冒頭ではみぞれの主観ショットが、希美の弾むポニーテールへ引きこまれるように食い入っていました。かたやみぞれはというと、髪も含め全身が膨張したり萎縮する漸次的なモーションによって特徴づけられます。そんな彼女が二つの転機を越え自立に向かうまさにそのさなかの歩行シーンで、希美の快活さが乗り移ったかのようなモーションを見せるのです。あまりにさり気ないカットですが、二人の交換可能性を如実に示しています(不意をつかれてほろっとしてしまいした)。  

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