出会い、こんにちはダダカンさん
- 2012.08.26 Sunday
- 18:54
本題前にお知らせをひとつ。
先週ついに、kuraxで開いていた「+R」(古本とアンティークの蚤の市)が幕を閉じました。当初は数ヶ月のつもりが、振り返ればはや2年。これも、ご来場下さった方々を始め、お世話になった皆さまのお陰です。平身低頭深謝。
ありがとうございましたー!

といいながら、、じつは場所を移してもう少しだけ続けられることになりました。青葉区役所裏手のビル2階にて、9月1日から。多少規模は小さくなりますが、ぎゅっと中味を凝縮して再開します。
ぜひ遊びにいらして下さいね!
会場:仙台市青葉区上杉1-4-8 ミヤ・ハイ上杉ビル2階(青葉区役所すぐ裏)
会期:2012.9.1-終期未定(不定休)
時間:11:00-19:00
参加店:ISHINN(アンティーク)、Chocolate.antiques(雑貨)、BUKOWSKI(キャンドル、雑貨)、書本&cafe magellan(古本)、Decoeur(洋服)、Squat(アンティーク、古着)、日進堂(おかし)、ひとつぶ堂(パン)
閑話休題。
この火曜日、ダダカン(糸井貫二)さんにお会いしてきました。これまで折にふれて紹介させてもらっていましたが、じつはこれが初対面です。
何しろお年(92歳)ですから、お訪ねすればきっとご負担になりかねません。それに、お会いするのも勿体ないなんて勝手に思い込む節もあったり。なんとなく遠慮してきてしまったのです。それが最近、複数の方の勧めがにわかに重なり、思い直すきっかけになりました。

連日の酷暑ゆえ、お身体を案じながら訪ねたところ、あにはからんや当日はすこぶるお顔色もよろしく、すっくと立派な三点倒立を披露して下さいました。ごそごそ身支度なさいながら命名まで授かる次第。「五時の儀」。時計を見やったら針が五時をさしていたからですって!
大きな窓からは思いのほか風がよく吹き込みます。そのうえ家屋の向きが日射しを凌ぎ、とても居心地のよいお宅でした。おまけに、例によって佳境にいたるやダダカンさんが裸になられ、いっそう涼しげになりました。
お父さまから譲り受けたという平屋の一戸建て。ここには、数十年の歴史が無造作に息づいています。板張りの廊下は左に傾ぎ、天井には雨漏りの紋様が表情豊かに広がります。目を凝らせば、そのむかし公安が仕掛けていったという盗聴器の埋め跡まで確認できます。そして、贈られ(芸大生お手製のマスクを継いだベストとか)、拾われてきた(半分に割れたカーブミラーなど)ものの数々が、空間の方々へ寄せ、あるいは積まれ、ときに飾られ、かりそめの居場所をあてがわれています。なかでもちょっと微笑んでしまったのは、日本共産党のポスターが無闇とあちこちに貼られていたこと。近所に剥落しているのを不憫に思い、拾って帰るのだといいます。
いうまでもなく統一的な美学や機能は皆無です。かといって、ただ散らかって無用の長物に堕しているわけでもありません。不思議と一切がダダカンさんの手から逃れた風情で、おのずとそこに佇んでいるのです。どれもこれも彼の所有物のはずなのに、気が抜けたように銘々勝手に寛いでいるというか。普段づかいの食器や家具まで、汚れも意に介さず、そっと隅に身を寄せ安らいでいるといったふう。それどころか、開け放した縁側を背に逆光のダダカンさんと接しているうち、薄暗がりのなか何もかも、人もものも見分け難くなってきます。あらゆるものが権利上おなじように佇み存在して見えるのです。まるで、あの大きな窓から風に乗って舞い込むなり、吹きだまってたまたま居ついてしまったかのように。ものばかりかダダカンさんご本人さえも。そういえば、このお宅すら幸運の賜もの、贈りものでしかなかったのでした。
すべては偶然そこに居合わせただけ。おそらくダダカンさんの目にはそう映っているのではないか(彼の座右の銘「一期一会」を想起してもよいかもしれません)。特権視されるべきものなど何一つありません。主人が物件を従えているわけではないのです。ましてや逆に、ものに振り回されることもありません。ともすれば、フェティッシュに溺れる挙げ句いわゆるゴミ屋敷へ転落しかねない瀬戸際で、それらは矢継ぎ早に転送されてしまいます。つまり、来客への土産やメールアートとして問題が解消されてしまうのです。
あまたのものたちと肩を並べる暮らし。かりに、それらの間にヒエラルキーを見出しうるとしても、それは持続する営みの残滓、かりそめのアリバイに過ぎません。家財はいうに及ばず、家屋も例外ではありません。かつて、ハイデガーは「住むことを能くする場合にのみ、建てることができる」(「建てる 住む 思考する」1951、大宮勘一郎訳)と喝破しました。住むことへの内在をとおして初めて建築は姿をあらわすというわけです。何にもまして、住むプロセスが先行するのです。住まうという一点において、建築やものと人との間にもはや別はありません。一方的に人ばかりでなく、建築やものまでもが等しく、ともに住まいうるのです。
廊下の傾斜、雨漏りのしみ、水に漬かる茶碗。お宅に佇むひとつひとつがひっそりそう打ち明けていました。

ところで、お話の内容はというと、時代やテーマを大きく跨ぎ、ここには書き留めきれないくらいです。ときを忘れて聞き入ってしまうほど面白く、なんども笑わせて頂きました。
痔のおかげで出兵を免れた思い出や見張りの公安との間に生まれた心温まる交流について。はたまた、思いがけず精神病院へ収容されながら、数奇にもそれがかねてからの念願で嬉し泣きしてしまった逸話など。そういえば、中原祐介さんがお亡くなりになったことをご存じなく、話題にあがったときには少なからず肩を落とされていたのが印象的です。

ダダカンさんの懐の深さにはいくら感謝してもしきれません。それから、案内して下さったSさんにも最大級のお礼を。ありがとうございました。
先週ついに、kuraxで開いていた「+R」(古本とアンティークの蚤の市)が幕を閉じました。当初は数ヶ月のつもりが、振り返ればはや2年。これも、ご来場下さった方々を始め、お世話になった皆さまのお陰です。平身低頭深謝。
ありがとうございましたー!

といいながら、、じつは場所を移してもう少しだけ続けられることになりました。青葉区役所裏手のビル2階にて、9月1日から。多少規模は小さくなりますが、ぎゅっと中味を凝縮して再開します。
ぜひ遊びにいらして下さいね!
会場:仙台市青葉区上杉1-4-8 ミヤ・ハイ上杉ビル2階(青葉区役所すぐ裏)
会期:2012.9.1-終期未定(不定休)
時間:11:00-19:00
参加店:ISHINN(アンティーク)、Chocolate.antiques(雑貨)、BUKOWSKI(キャンドル、雑貨)、書本&cafe magellan(古本)、Decoeur(洋服)、Squat(アンティーク、古着)、日進堂(おかし)、ひとつぶ堂(パン)
閑話休題。
この火曜日、ダダカン(糸井貫二)さんにお会いしてきました。これまで折にふれて紹介させてもらっていましたが、じつはこれが初対面です。
何しろお年(92歳)ですから、お訪ねすればきっとご負担になりかねません。それに、お会いするのも勿体ないなんて勝手に思い込む節もあったり。なんとなく遠慮してきてしまったのです。それが最近、複数の方の勧めがにわかに重なり、思い直すきっかけになりました。

連日の酷暑ゆえ、お身体を案じながら訪ねたところ、あにはからんや当日はすこぶるお顔色もよろしく、すっくと立派な三点倒立を披露して下さいました。ごそごそ身支度なさいながら命名まで授かる次第。「五時の儀」。時計を見やったら針が五時をさしていたからですって!
大きな窓からは思いのほか風がよく吹き込みます。そのうえ家屋の向きが日射しを凌ぎ、とても居心地のよいお宅でした。おまけに、例によって佳境にいたるやダダカンさんが裸になられ、いっそう涼しげになりました。
お父さまから譲り受けたという平屋の一戸建て。ここには、数十年の歴史が無造作に息づいています。板張りの廊下は左に傾ぎ、天井には雨漏りの紋様が表情豊かに広がります。目を凝らせば、そのむかし公安が仕掛けていったという盗聴器の埋め跡まで確認できます。そして、贈られ(芸大生お手製のマスクを継いだベストとか)、拾われてきた(半分に割れたカーブミラーなど)ものの数々が、空間の方々へ寄せ、あるいは積まれ、ときに飾られ、かりそめの居場所をあてがわれています。なかでもちょっと微笑んでしまったのは、日本共産党のポスターが無闇とあちこちに貼られていたこと。近所に剥落しているのを不憫に思い、拾って帰るのだといいます。
いうまでもなく統一的な美学や機能は皆無です。かといって、ただ散らかって無用の長物に堕しているわけでもありません。不思議と一切がダダカンさんの手から逃れた風情で、おのずとそこに佇んでいるのです。どれもこれも彼の所有物のはずなのに、気が抜けたように銘々勝手に寛いでいるというか。普段づかいの食器や家具まで、汚れも意に介さず、そっと隅に身を寄せ安らいでいるといったふう。それどころか、開け放した縁側を背に逆光のダダカンさんと接しているうち、薄暗がりのなか何もかも、人もものも見分け難くなってきます。あらゆるものが権利上おなじように佇み存在して見えるのです。まるで、あの大きな窓から風に乗って舞い込むなり、吹きだまってたまたま居ついてしまったかのように。ものばかりかダダカンさんご本人さえも。そういえば、このお宅すら幸運の賜もの、贈りものでしかなかったのでした。
すべては偶然そこに居合わせただけ。おそらくダダカンさんの目にはそう映っているのではないか(彼の座右の銘「一期一会」を想起してもよいかもしれません)。特権視されるべきものなど何一つありません。主人が物件を従えているわけではないのです。ましてや逆に、ものに振り回されることもありません。ともすれば、フェティッシュに溺れる挙げ句いわゆるゴミ屋敷へ転落しかねない瀬戸際で、それらは矢継ぎ早に転送されてしまいます。つまり、来客への土産やメールアートとして問題が解消されてしまうのです。
あまたのものたちと肩を並べる暮らし。かりに、それらの間にヒエラルキーを見出しうるとしても、それは持続する営みの残滓、かりそめのアリバイに過ぎません。家財はいうに及ばず、家屋も例外ではありません。かつて、ハイデガーは「住むことを能くする場合にのみ、建てることができる」(「建てる 住む 思考する」1951、大宮勘一郎訳)と喝破しました。住むことへの内在をとおして初めて建築は姿をあらわすというわけです。何にもまして、住むプロセスが先行するのです。住まうという一点において、建築やものと人との間にもはや別はありません。一方的に人ばかりでなく、建築やものまでもが等しく、ともに住まいうるのです。
廊下の傾斜、雨漏りのしみ、水に漬かる茶碗。お宅に佇むひとつひとつがひっそりそう打ち明けていました。

ところで、お話の内容はというと、時代やテーマを大きく跨ぎ、ここには書き留めきれないくらいです。ときを忘れて聞き入ってしまうほど面白く、なんども笑わせて頂きました。
痔のおかげで出兵を免れた思い出や見張りの公安との間に生まれた心温まる交流について。はたまた、思いがけず精神病院へ収容されながら、数奇にもそれがかねてからの念願で嬉し泣きしてしまった逸話など。そういえば、中原祐介さんがお亡くなりになったことをご存じなく、話題にあがったときには少なからず肩を落とされていたのが印象的です。

ダダカンさんの懐の深さにはいくら感謝してもしきれません。それから、案内して下さったSさんにも最大級のお礼を。ありがとうございました。