『リズと青い鳥』について(後編)+ 2018.6.7 追記

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:49

 本題前にまたもお知らせをひとつ。

 

 仙台発の月刊誌『りらく』の今6月号で弊店を取り上げて頂きましたー。特集「本の世界に遊ぶ 雨の日は図書館、ブックカフェへ」のページです。

 取材して下さった記者さん方に感謝です。ありがとうございました!

 

『りらく』第20巻11号(りらく編集部、プランニング・オフィス社、2018.5)

 

 閑話休題。

 

 映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想、その後編です。

 これで完結します。

 なお前編はこちら

 

 仙台ではMOVIX仙台でロングラン中のようです。おすすめ、、というかぜひ色んな方に見てほしいなぁ。

 先々にはきっと山田監督の代表作になってゆくだろうと思います。けれどそれにもましてアニメなり映画の歴史に何らかの足跡を残さずには済まさないんじゃないかしら、そう思わせられるくらいに傑作です。観ておいて損することはまずないはずです。

 

* 2018.6.7追記

 時おり愉しく拝見している千葉雅也さんのtwitterで、とても共感するご発言に出くわしました。拙文を書いている間ずっと感じていた問題意識がズバッと明晰に語られていたので、うぉっとつい唸ってしまいました。。

 

 例えば、、「解釈」の機能しないこの世界において「虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるか」。つまり、相互理解そのものはおろか、その不可能性さえもがもはや問題たりえない現代において、それでもなお関係を紡ぎうるとしたらどんな形がありうるのか。『リズ鳥』がその回答のひとつを示しているように思われたわけです。

 蛇足ながら、、たぶん土居伸彰さんが「私たち」という、理論的にはかなり緩い言葉でフォーカスしようとしている問題(特にご著書である『21世紀のアニメーションがわかる本』で説かれている)もこの辺りにあるのだろうと踏んでいるのですが、どうでしょうか。。

 

 せっかくなので、一連のtweetを引かせて頂きます。

 それはそうと、どうやら千葉さん新著をご準備なさっているようです。今後のお仕事がますます愉しみになりました。

 

 ポスト・トゥルースとは、一つの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えば、別の世界同士の争いだ。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。他者はすべて、別世界の住人である。(2018.6.5)

 

 ポスト・トゥルースとは、真理がわからなくなってしまった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりである。そうなると、バラバラの事実がぶつかり合うことになる。(同上)

 

 マルクス・ガブリエルの新しい実在論はおそらくこの状況を言っている。僕はガブリエル評価を改めようと思う。(同上)

 

 付言すれば、ドゥルーズ『意味の論理学』で言う深層とは、ポスト・トゥルースの状況だろう。(同上)

 

 階級闘争とは、世界の解釈の争いではない。異なる事実と事実の争いである。(同上)

 

 そうか、ドゥルーズ&ガタリの精神分析批判って、解釈をやめろ、ということなんだ。それはポスト・トゥルース化に他ならない。異なる諸事実が並立する状態に入ること。それが「分裂分析」なのか。(2018.6.6)

 

 そしてサントーム論に向かったラカン(松本卓也さんが紹介するような)も、ドゥルーズ&ガタリと同じくポスト・トゥルース的人間について考えたのだ、ということになる。(同上)

 

 『ラカニアン・レフト』が不満なのは、様々な政治闘争を接続する虚のトポスを活用しようという話になってるからで、それってファリックじゃないかという疑問を持つ。他の享楽側へと行ったら、諸々の闘争はバラバラになるはずで、それらを虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるかが問題なはず。(同上)

 

 

***

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

(承前)

 

3 斜交う誤配

 

 明察を得たみぞれは、全体練習の場で才能を遺憾なく爆発させます。ソロパートを圧倒的な表現力で奏でるのです。彼女なりに希美との相性を立証するための熱演でもありました。ところが、皮肉にも希美に対しては実力の差を突きつける結果を招きます。打ち拉がれる希美は途中で投げ出すわけにもゆかず、みぞれの音に追いすがるのが精一杯です。やっとの思いで吹き終えても、人目を忍んで席を外してしまいます。

 生物室 (★5) まで追いかけてきたみぞれが声をかけようとすると、希美は泣き腫らした目許を取り繕うかのように言い放ちます。「みぞれはずるいよ」。劣等感や虚栄心、憧憬など鬱積する本音が堰を切って捲し立てられます。

 みぞれももどかしさのあまり声を荒げずにいられません。吹奏楽部へ誘ってくれた事の始めにまで遡りながら、募る想いの丈を吐露します。楽器を続ける理由さえ、希美と一緒にいるためでしかないと言って退けるのです。挙げ句希美の胸へ飛び込むなり、畳みかけるように相手の「好き」な点を数え上げます。足音や髪、話し方、それから皆と仲良くできるところ等々。

 それに引き換え、希美は自分が勧誘したことすらよく覚えていません。あまつさえみぞれの抛る訴えは、どれ一つとして希美の琴線には触れません。クローズアップされた希美の瞳は、抱きつくみぞれの頭越しをただ虚ろに見つめるばかりです。さりとて耳に届いていないわけでもなく、間違いなく意識を傾けています。みぞれの言葉に応じて瞳が小刻みに震えるからです。

 なぜ希美の心が動かないのか。みぞれを宥めた後、ぽつりと洩らされる返答に一切が凝縮しています。「みぞれのオーボエが好き」。

 

 顧みればパート練習で場所を違えていても、みぞれの音が画面外から鳴るたびに必ず希美は耳を傾けていました。彼女は演奏そのものに惚れていたのです。だから逆にその敬慕する奏者から聞き出したかったのは、自分の音を認めてくれる証しだったに違いありません。「希美のフルートが好き」と。それなのに、みぞれが乱れ撃った数多の「好き」の中にはついに含まれていませんでした。希美にとっていわば無能宣告にほかなりません。先の実演に続き、みぞれは図らずもだめ押しを加えてしまった恰好になります。

 他方みぞれにとってもいわずもがな、希美の返答は必ずしもかけてほしかった言葉ではありません。むしろ正反対を意味します。希美は畢竟、みぞれ自身が望むようには丸ごと求めてくれるわけではないのですから。

 二人の「好き」は絶望的なまでにすれ違い、伝えたかった真意は互いに何ひとつ届きません。けれど一連のやりとりは、彼女らの思惑から外れて予想外の宛先を切り拓きます。

 

 まず希美が一方的に話を打ち切り、お茶を濁すように独り廊下へ駆け出します。すると歩いているうちに、初めてみぞれに呼びかけたときの情景が甦ってきます (★6) 。そして、何ごとかを仕切り直すかのように深く長い吐息をつくのです。上達したみぞれに気をとられるあまり、楽器を吹いていなかった素の彼女を忘れていたのでしょうか。それに気づきあたかも初心に返れたかのようなモンタージュです。一から関係を再構築してゆこうと、吹っ切れたような表情を見せてシーンが変わります。幕切れには「みぞれのオーボエを支えるから」と宣言することにもなります。

 みぞれも最終的には、たとえ独り音大へ進学してもオーボエを続けると断言します。オーボエは当初、希美と離れないためにこそ必要とされていました。それがかえって、希美から自立するための媒介を担い始めるのです。希美が「全て」だったかつてのみぞれは、さしずめ母子未分化な赤ん坊のような存在でした (★7) 。オーボエはさながら、乳房のように母たる希美と分かちがたい閉域を作っていました。そこへ例の希美の一言が亀裂をもたらしたのです。みぞれは言外の含みを汲みとれないまま、字義通りに受けとります。希美が「好き」なのは私の吹く楽器であって私ではない。つまり私は希美と一つになれないし、オーボエと希美は一緒くたにはできないのだと。オーボエは希美の手から離れ、その価値は彼女が示唆を与えたものという象徴的な意味合いへ切り下げられます (★8) 。反面オーボエそのものがもつポテンシャルを開示することにも繋がります。希美との今ここに呪縛されていたみぞれの時間が、オーボエの放たれた未来へと動き出すのです。

 

 交わされた言葉は話し手の意図から逸れて、別の何ごとかを聞き手に届けてしまいます。そして実は聞き手もまた、自分が受けとった何ごとかを未だ明晰には呑み込めていません。初対面の記憶やオーボエの存在は、未規定なまま単に突出しているだけです。それにも拘らず、彼女らは触発されるがまま踏みだします。意味の理解を差しおいて、言葉の働きかけに身を開くのです。たとえボタンを掛け違っていてもかえってそこから生まれる別の作用を尊重し、いっそ未来への布石に転じてしまうこと。

 もし意味に囚われていたなら、何もかもが従来の執心へ回収されてしまい、関係は泥沼化するほかなかったに違いありません。リズの理解に苦しみ、手詰まりに陥っていたみぞれの姿が思い起こされます。しかし二人は既に、視点の転換を通して事態を相対化する経験を積んでいます。既定の意味に拘る謂れはもはやありません。膠着していた関係が定かならぬ未来へ向けて解きほぐれてゆきます。おそらく初めて彼女らは、過去に縛られることなく相手を自由な個として見出だします。先述しておいた最後のツーショットはその成果を讃えて余りあるでしょう。

 さりとてみぞれにとって希美が特別であることは依然変わりませんし、希美にしてもそれに応えられるよう趣味嗜好が変わったわけではありません。まして「特別」の意味を心から理解できる余地はまずなさそうです。彼女らはきっと、まかり間違っても愛の成就なり破局など意味を共有しうる間柄には至らないでしょう。ちぐはぐな応酬を繰り返しては誤配を重ね、斜交う関係をどこまでも続けてゆくのではないでしょうか。全一とは無縁な絶対的な断片なのです (★9) (了)

 

 

【注】

 

 5

 人づきあいの不得手なみぞれにとって、生物室は独り静かに佇める聖域です。飼育されているフグによく餌をやるシーンは、人里離れて動物を餌づけするリズの森さえ彷彿とさせます。けれど他方では、心地よいからこそ閉じ籠ったままの現状を招いてもいます。無自覚ながら自由が封じられているのです。生物室はまるで鳥にとっての籠さながらです。

 いうまでもなくこの両義性は、みぞれが抱えこむダブルバインドのメタファーです。希美に執着するあまり彼女との関係、そして演奏さえも膠着させてしまうのですから。ゆえに、みぞれの転機は決まってこの特権的なトポスと連関して生じます。

 ひとつめは「視点の転換」です。くだんの教員がここを探し当ててくれたお陰で起こりえました。彼女は本編中初めての生物室への侵入者でもあります。

 もうひとつはこれから拙文で論じることになる、籠の解錠に相当する出来事です。希美と繰り広げる応酬が、やがてみぞれの自立を帰結します。じつは、希美が生物室を訪ねたのもこれが初めてです。かねてフグに餌をやってみたいと調子を合わせていた割に、その後一向に素振りすら見せなかった彼女だけに事の重大さは推して知るべしです。

 

 なお、籠のメタファーが当てはまるのは、あながち生物室だけではありません。音楽室や普段づかいの教室それから廊下も含めて、学校全体がさも鳥籠であるかのように演出が凝らされています。というのもサッシがグリッドに仕切る向こう側を、あまりにも頻繁に鳥たちが飛び回るからです。明るい外を自在に滑空する鳥は、薄暗い屋内の閉鎖性を逆照射します。校舎を覆うサッシはあたかも籠の網の目です。

 学校という特殊な閉域がまざまざと縁どられることで、かえってその外部が痛切に意識させられます。生徒らの行く末です。遅かれ早かれ旅立たねばならないものの、杳として見透しの利かない未来が本作の裏側に貼り付いています。

 

 ところで、結末を除きただ一度きりカメラが校外へはみだすシーンがあります。みぞれに張り合ってつい音大受験を宣言してしまった希美が、逡巡しはじめる矢先のことです。夕暮れに彼女は独り小高い丘へ赴き、町を一望するのです。後ろ姿を引きで抜くカメラはそこが東屋(すなわち籠です)であることを明かします。

 校舎を抜け出てもなお希美は籠の中の鳥でしかありません。彼女固有の痛ましさが滲みでているシーンです。なぜなら、希美の逃げ場が学校のどこにも存在しない事実を露呈しているからです。ひょっとしたら生物室を保険にもつみぞれの方が、むしろ恵まれているとさえ言えるかもしれません。

 希美は人づきあいをそつなくこなしているかに見えて、実は素顔を曝せない質なのです。みぞれに対するわだかまりを鬱積させていた希美の姿が偲ばれます。

 

6

 このシーンは色を飛ばして、現実の絵柄と差別化されています。かたや冒頭のみぞれによる同じ過去の想起でも、やはり明度が高めに設定されていました。しかしタッチが異なります。先行のフラッシュバックでは絵本の朗読とモンタージュされていたせいか、よりファンタジー寄りにデフォルメされていました。もしかしたら、みぞれの方が思い出に夢を抱いていることの証左なのかもしれません。おまけに台詞も若干違います。希美の記憶では「帰宅部」という露骨な表現が飛び出します。

 

7

 みぞれの幼児性はしきりと髪に触れる習癖によく表れています。何かしら感情が動くときだけでなく、手持ち無沙汰の折にも決まって髪を手で撫でるように梳きます。

 興味深いのは、はじめて希美に声を荒げる際には髪ではなくスカートを両手で強く握っていた点です。強いていえば幼児性からの離脱、少なくとも何らかの異変が見てとれます。

 

 もう一点、冒頭で校門から音楽室へ向かう途中、先をゆく希美が下駄箱の角にすっと手を沿わせるカットがあります。後に続くみぞれもさり気なく同じ角に手を沿わせて先を急ぎます。一瞬の仕草とはいえ、希美を慕う気持ちとあわせて接触に偏執する習癖まで仄めかす秀逸な演出でした。

 

8

 ラカン派精神分析の術語でいえば「疎外」と「分離」による二段階の去勢が執行されているわけです。先述した視点の転換はここでの「疎外」の雛形になっていました。そしてオーボエは「対象a」です。その導く先には、より高度に抽象的な音楽の世界とともに業界の道理や秩序さえもが待ち構えているでしょう。

 その伝でいけば、一面ではみぞれは象徴界へ参入し、希美は軽い神経症から癒えたとも言い直せます。しかし肝心なのは、それにも拘らず逸脱を余儀なく繰り返す二人の軌跡です。言葉に別な作用を見出だしては関係を更新し続ける応酬は、精神分析というよりかフェリックス・ガタリの唱えていた「スキゾ分析」に近しいのかもしれません。

 

9

 少女らの絶対的な断片性を「実在的対象」として捉えれば、グレアム・ハーマンの唱える「オブジェクト指向実在論」の絵解きとして見立てられるかもしれません。例えば二人は互いに「脱去」しあっており、絶対に分かりあえない。にも拘らず初対面の記憶やオーボエなど「感覚的対象」を通して魅惑され、間接的に関係(代替因果)を築ける、とか。全然関係ないけれど、ハーマンってアニメを見たりするのかしら。。 

『リズと青い鳥』について(前編)

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:06

 本題前にお知らせをふたつ。

 

 1ヵ月余りにわたって開催した三人展「本当に思い出せなくなる前に」が、お陰さまでおととい無事に終了いたしました。

 ご覧下さった方々にあらためて感謝を。ありがとうございました!

 そして、作家さん方にもお礼と労いを。おつかれさまでした!

 久しぶりに店内を目いっぱい使った展示だったせいもあり、会期中はいつにもまして愉しく過ごさせて頂いたのでした。。

 

 それから、、佐藤ジュンコさんがまたまたまんがを上梓なさいましたー。

 仙台を中心に、彼女が食べ歩き散らかしてきたドキュメントです。

 弊店もちょこっと登場します。

 店頭で販売してますので、よかったらお手にとってご覧くださいまし〜。

 

『佐藤ジュンコのおなか福福日記』ミシマ社、2018)¥1,500+税

 

 閑話休題。

 

 予告どおり映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想をまとめておきたいと思います。

 最後に観てからもう1ヵ月も経っのに、鳥がまだ頭の周りをぐるぐる旋回しています。やばいです。。

 

 やや長くなったので、2回にわけて掲載します。

 なお後編はこちら

 

 本作は仙台でもまだロングラン中みたい。MOVIX仙台です。おすすめですー!

***

 

 0 はじめに

 

 

 ある高校の吹奏楽部を舞台にしたテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』(2015-16放送)という群像劇のスピンオフ作品です。物語の時系列としてはテレビシリーズの延長にあたりますが、監督もキャラデザも刷新されておよそ独立した作品に仕上がっています。

 テレビシリーズでは巧みな構成と細やかなキャラクター設定が駆使され、複雑な人間関係が編まれていました。しかも部員らの相当微妙な内面にまで踏み込みながら、決して物語を停滞させることがありません。コンクールへ直進する推力を支えに、数多のサブプロットを語り切るのです。いくつもの支流を抱えては奔流する大河のような作品でした。

 一方『リズ鳥』はというと、さしずめ水たまりのように小さく狭い間柄に的を絞ります。数十名いる部員のうちたった二人の、本来なら端役に過ぎなかった少女どうしの交友です。そのうえ筋肉のわずかな強ばりや目許のかすかな震えなど、より一層ディテールへ寄り添うのです。明快なフルショットの手合いは極力避けられます。遠目には凪いで見えるやりとりの端々に、小波のような感情の揺らぎが炙り出されます。その多様なニュアンスを丹念に積み上げてゆき、絶妙に移ろう関係性を階調豊かに浮かび上がらせるのです。

 ともあれシナリオの比重が大きかったテレビシリーズからは一転し、『リズ鳥』ではディテールの描写(音や台詞の間合いも含めて)とそのモンタージュへ力点を移すのです。これはナレーションの撤廃にも顕著です。テレビシリーズでは、主人公久美子による回想口調が物語にサスペンス調の安定したパースペクティブを開いていました。ところが、モノローグの類いを一掃する『リズ鳥』には見通しよい観点がありません。あまつさえ少女らは口数が少ない。内気なみぞれはいうに及ばず、快活な希美も気風よいが故に余計なことを口にしません。俄然ショット一つひとつが際立ち、画面への注視が促されます。

 もとより、ディテールの作画はテレビシリーズでも急所のひとつでした。まして山田監督といえばちょっとした仕草、わけても足の演技の手練です。ただ従来まではいくら優れた演出だろうと、あくまでシーンに厚みをつけ足す手段でしかありませんでした。それが『リズ鳥』では、断片であるそのこと自体が主題のアレゴリーたりえています。

 ひとつには才能や佇まいなどキャラクターの一面に過ぎないまさに断片が、相手を翻弄する重要な役を担っているからです。けれどそのためばかりでなく、そもそも彼女らじしんが相互理解も叶わずめいめい断片に留まるほかない存在だからでもあります。理解しあうことのないまま、それでもなお新たに関係を紡いでゆく姿を示して作品は幕を閉じます。断片たることは、否応なく孤絶を意味すると同時に関係を結ぶ条件でもあるわけです(★1)。いうまでもなくこれは、映画そのものにおけるカットとモンタージュの謂であり、なおかつそれらを懸命に追う観者の含みでもあります。

 本作の要がディテールにあることは疑う余地がありません。さりとて、単にその精妙さを愛でるだけでは片手落ちを免れません。美しさに見とれて、断片がもつポテンシャルを遺棄してしまうなんてあまりに惜しい。その過剰さは美の予定調和に収めきれるものでは到底ないはずです。

 以上を踏まえたうえで、これからはあえて愚直にシナリオを追ってゆくことにします。まずは主題上の断片性を確認しておくに如くはないでしょうから。もとより、あまりにディテールが豊か過ぎてアプローチを絞るのに難儀だからでもありますが。。

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

 

1 冒頭と結末のコントラスト

 

 本編の幕は、みぞれと希美の登校するシーンによって上がります(★2)。そして幾日かの練習風景を跨いだ後、やはり彼女らが下校するさなか下ろされます。数週間にわたると思われる経過が、まるで一日の顛末さながらに構成されています。ミニマムに仮構された時空は余計なものごとのつけいる隙を断ち、移ろいゆく二人の軌跡を鋭く浮き彫りにします。冒頭と結末がなすコントラストは、その推移をひときわ鮮やかに示してくれます。

 かたや、早朝に校門で待ち受けるているのはみぞれです。遅れて希美が合流し音楽室へ向かいます。他方、放課後の校門には希美が控えています。本編を挟んで二人の位置が反転するのです。いったい何があったのでしょうか。

 歩調は相変わらずです。何時いかなるときも希美が颯爽と先陣を切り、みぞれが頼りなげに遅れをとります。会話のちぐはぐさも本編の前後で大差ありません。二人の個性は終始変わらぬままです。

 カメラワークから察するに、変化が窺えるのは二人の関係です。冒頭で著しかったのは、希美の一挙手一投足に目を奪われるみぞれの主観ショットでした。対して結末を飾るのは、歩行中の二人を初めて正面から押さえたバストショットです。望遠レンズの圧縮効果によって手前と奥が詰められ、二人を画面に斉しく収めます。

 当初一方的に過ぎた執着が本編を経て氷解し、対等な友情に立ち至れたかのような赴きです。おまけにカメラが校外へ踏みだすシーンはこれを措いておよそ皆無であり、開放感がいやまし強調されています。

 

 

2 関係の交換可能性

 

 関係に変化が生じた発端は『リズと青い鳥』という絵本です。リズという孤独な少女のもとへ、彼女を案じた鳥が女の子に化けて現れるという筋書きです。

 これに取材した同名の楽曲が、来るコンクールの自由曲に選ばれます。そして目玉の第三楽章では、二人のソロが懸け合うことになるのです。しかも語られる内容が、彼女らの因縁とあまりに重なり、絵本は少女らを写す鏡の役を担いだします。

 当初は過去と性格に符合することから、何ら疑いなくみぞれがリズに、希美が鳥に自らを投影していました。

 というのも内気で孤立していたかつてのみぞれに、思いがけず声をかけてくれたのが希美だったからです。入部の勧誘に過ぎなかったはずのこの一件は、しかしみぞれにとっては恩寵にほかなりませんでした。爾来、希美はみぞれの「全て」になります。

 ところが、中盤を過ぎるなり投影先が覆ります。こんどは現状と能力に照らして、みぞれが鳥を、希美がリズを再発見するのです。

 絵本の佳境では、リズが未練を押し殺して鳥に旅立ちを迫ります。というのも一緒に暮らす幸せが、その想いとは裏腹に鳥を地上に縛りつけることにしかならないと悟ったからです。

 希美の喪失を何より恐れるみぞれには、これが受け容れられません。リズの理解に躓くみぞれは、演奏すらままならなくなります。そこで見かねた教員が、視点の転換を促します。するとリズとの同一化を弛めた途端、みぞれはたちまち事態の明察に達します。リズの提案は、鳥にとってもきっと堪えがたかったはず。けれどリズが願うのなら、それに応えることこそ愛に報いることなのではないか。鳥が涙をのんで決意する、その胸中をしっかり汲みとるのです。

 かたや希美はというと、次第にみぞれに対するわだかまりを隠しきれなくなります。みぞれに期待を寄せる教員が決定的でした(★3)。みぞれには音大を手厚く勧める一方、希美には人並みな対応しかしてくれないのです。これを機に今までは無自覚だったものの、ずっと複雑な澱を溜め込んでいたことが痛感されます。羨望に嫉妬、屈辱感。相手に執着していたのは自分の方ではないか。リズの姿が他人事ではなくなります。なぜなら、実際に別れを切りだす前のリズも鳥に執心するあまり葛藤を抱えこんでいたからです。

 二人はともに、新たな視点を手に入れ認識を改めます。さりとて、現実に何かを為し遂げたわけでは無論ありません。ただ観念的に関係を相対化できたに過ぎません。

 そもそもみぞれの場合、鳥の気持ちはさておきリズについては単に黙殺しただけです。それどころか自分の判断を相手に委ねている点からして、希美に依存する体質は変わらぬままです。

 希美も同様に、才能の格差を身にしみて思い知ったわけではありません。まして、克服なんてしようがありません。

 それに、以前の視点が無効になる謂れも殊更ありません。認識の上だけでなら、視点の転換は難なくこなせます。要は、みぞれも希美も互いにリズでありかつ鳥でもありうるのです(★4)。肝心なのは正しい自己像を探し当てて確定することではなく、確定的に思われた自己が他でもありうるという可能性です。この有余が、やり直しの利かない現実を受けとめる素地を整えます。

 ちなみに、もし有余なしに現実と直面する羽目になったとしたら、相応のリスクを伴うはずです。例えばテレビシリーズでは、希美がみぞれの前から忽然と姿を消した結果みぞれはノイローゼに陥ってしまったのでした。(つづく)

 

 

【注】

 

1

 本編の冒頭と結末にはぞれぞれ「disjoint」と「disjoint」という単語が、カリグラフィー(所謂シネカリ)風にアニメイトして挿入されています。「disjoint」とは授業のシーンでもさりげなく触れられる通り「互いに素」の意味です。おそらく含意として「ばらばらになる」などが込められていそうです。接頭辞が掻き消される後者であれば「つながる」でしょうか。いずれにしろ「断片」の境位そのものを示していると考えられます。

 

 ちなみに、カリグラフィーの技法といえばノーマン・マクラレンの『線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)がよく参照されます。当該箇所もご多分にもれず、まず間違いなく彼へのオマージュです。なにしろ『即興詩』のモチーフからして赤と青の二羽の鳥なのですから(厳密には赤と緑。補色対比のためかと考えられる)。拙文では後に論じるとおり『リズ鳥』もまた青い鳥と赤い少女の物語なのです。

 

 

左から線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)、『隣人(Neighbours)』(1952)

 

 じつは山田さんの前々作『たまこラブストーリー』(2014)のエンディングもやはりマクラレンの『隣人(Neighbours)』(1952)を換骨奪胎したパロディになっていました。後者は冷戦下における米ソの対立わけても朝鮮半島の情勢を、ピクシレーションを駆使した滑稽なモーションによってブラックユーモアに仕立てた作品です。彼女はこれを、ライバル店どうしの子どもたちが繰り広げる恋物語に転用するのです。『隣人』でお隣との媒介役を果たしていた花が、『たまこ』では林檎へ置き換えられてさらにフェイクとリアルの2種に分裂させられます。

 ともあれ、山田さんがマクラレンなりNFB(カナダ国立映画制作庁)、もしくは実験アニメーションの系譜に相応の関心をお持ちなのは作品からひしひしと伝わってきます。それと日本の所謂アニメとの関連をどんな風に捉えていらっしゃるのか興味が尽きません。

 

2

 本作は直ちには本編へ入らず、作中絵本の導入部から始まります。ある少女が動物たちにパンを分け与えているところへ、青い鳥が舞いおりてはすぐさま飛び立ちます。彼らにとっては初めての出会いです。これはみぞれと希美の起源を象徴するとともに、直後に継がれる本編冒頭の雛形にもなっています。鳥を見上げる少女の仕草も含め、本編でもう一度反復されるのです。みぞれの待つ校門に希美が落ちあい、然るのち希美の拾い上げた青い羽根をみぞれが見上げます。作中鍵となる図式への巧みな誘導が見てとれます。不動の(待つ)存在=見上げる=リズ=みぞれ/動く(訪れては去る)存在=見られる=鳥=希美。

 

 本編自体の滑りだしは、歩くみぞれのローファーを真横から追う長回しです。まさに「断片」によって幕が開きます。そしてカットをいくつか挟み、おもむろに希美の靴音と劇判が絡み合いだしては束の間のミュージカルが浮かび上がります。歩調の映画であることがはっきり印象づけられるシーンです。

 

 ところで同じ歩行をモチーフにしたアニメに、ライアン・ラーキンの『Walking』(1968)があります。作画と音作りを擦りあわせながら同時に進行した点でも符合します。ところが歩行そのものの捉え方は対蹠的です。

 

『Walking』(1968)

 

 序盤しばらくは立ったままの雑沓が大半を占め、カットバックで彼らの視線の先に歩行者がひとり示されます。ベランダから俯瞰された大写しの全身像です。パースに沿って視線が自ずと足もとへ向かいます。さりとてこの後も足を強調こそすれ、「断片」として切りだすことはまずありません。あくまで全身運動として描かれます。

 加えて不調和なリズムが前景化することもありません。次第にアングルを変えながらペースの様々な歩行者が画面を駆け巡ります。けれど構図が的確なせいか、リズムの差異が全体へ溶けこんで見えるのです。強いていうなら、ラーキンは数多の通行人を観察しては消化して一つの合奏に仕立てています。それに引き換え『リズ鳥』の照準は、歩行の不調和へ向けられています。

 

 あるいは足を主題化したアニメといえば、新海誠さんの『言の葉の庭』(2013)が記憶にも新しいでしょうか。男子高校生と女性教師が互いに「自分の足で歩けるようになる」までの、要は自立するまでのお話です。逆にいうと「歩けるようになる」以前の顛末なので、そもそも歩行中のカットが少ないうえに並んで歩くシーンさえなかった気がします。

 

『言の葉の庭』(2013)

 

 さりとて貴重な足もとのショットを顧みるにつけ、水溜りを踏んだり光が射したり環境を反映する役を割り振られていたのが印象的です。もしくは佳境で足のサイズを測ったり、裸足のまま駆け出したりします。いずれにしろシーンの下支えに徹するのです。かたや『リズ鳥』の場合は下支えもちゃんと果たすとはいえ、それにもまして歩行そのものが「断片」として突出してきます。

 これに限らず、新海さんと山田さんはあらゆる点において対称的です。前者は広角レンズで目いっぱい光を取りこんでコントラストを強調します。キャラクターの心情なり境遇を広大な風景に託すためです。

 対して後者は望遠レンズで若干アンダー気味にしっとりした絵作りを心がけます。静かな風景と動くキャラクターに絶妙な間を保ち、相対的に風景を自立させるのです。なおかつ画角の狭さはキャラクターの視野の狭さに重ねられます。または疑似ドキュメンタリーのようなあざとさは避けながら、視野をふわふわ揺らせたりもします。

 

3

 教員の件とは別に、希美を揺さぶるサブプロットがもうひとつ描かれています。みぞれとその後輩による交流です。休日に遊ぼうと希美がみぞれを誘うシーンが2回あり、そのつど他に呼びたい人がいるか確認します。最初はいないと返答したみぞれが、次の機会には後輩も誘いたいと申しでるのです。

 希美を正面から逆光気味に押さえるショットに、画面外から当の申告が被せられます。不意に画面手前を他の生徒が横切り、希美の姿が一瞬隠されてすぐ現れます。すると屈託なかったはずの表情に微妙なニュアンスが差しているのです。みぞれに対する保護意識なのか独占欲なのか、いずれにしろ無意識の出し抜けな漏洩が澱の存在をはっきり告げ知らせてくれます。

 

 ところで、山田さんは割合ジャンプカットを多用しますが、カットを繋ぐ素朴なモンタージュにはよらず、今回のように一連の演技として成立させるのは初めてのような気がします。周囲が変わらないなか希美の心境だけが急変するシーンなので、風景の連続性と心境の不連続を両立させるための工夫なのでしょう。かりに素朴なジャンプカットを採用していたなら、後者ばかりが迫りだし前者が犠牲となって事前と事後の比較に過ぎない薄っぺらな書き割りにしかならなかったのではないでしょうか。連続する風景こそが急変する心境の孤絶を際立たせ、重みのある表現を結実させています。

 

 ちなみに、みぞれと後輩のサブプロットは希美を動揺させる返す刀で、メインプロットの二人をも照らしだします。というのもみぞれの無愛想にもめげず健気にアプローチを繰り返す後輩の姿は、とりもなおさず希美への叶わぬ想いを秘めるみぞれ自身にほかならないからです。やがて親しくなった暁に二人きりでオーボエを奏でる光景は、みぞれが思い描く希美との理想像にほかなりません。そのうえ次第に深まる後輩との絆は、図らずも新たな人間関係を形成する雛形にもなっています。自立の助走さえ兼ねているのです。

 特筆すべきは、あるサブプロットがメインプロットへ絡んでゆく経路の重層具合です。この手のサブプロットがいくつも仕組まれています。図書室でのやりとりや部長と副部長のかけ合い、あるいは絵本の少女と鳥等々。どれもシーンの密度が異常に高いのです。

 

4

 交換可能性の暗示は、じつは既に冒頭からディテールのそこかしこに鏤められていました。

 先述した青い羽根は拾われるなりすぐさまみぞれに渡り、以後ずっと彼女が携えることになります。かたや絵本では、リズが髪飾りにと鳥に赤い木の実を挿してやります。すなわち、与える者=希美=リズ/与えられる者=みぞれ=鳥という図式が浮かぶのです。そもそも担当パートからして希美のフルート=リズ/みぞれのオーボエ=鳥です。

 それなのに、作中の二人が逸早く感情移入する先は逆さまでした。希美=鳥/みぞれ=リズという具合に。

 

 もしくは色の象徴系によれば、現実と絵本の照応のみならずリズと鳥、そしてみぞれと希美の取り替えすら仄めかされます。青い鳥に赤い木の実を挿すというのは、端的にリズの赤と鳥の青の混在を意味します。というのもリズが赤いスカートを穿いているからです。あるいは青い羽根を所有するみぞれが赤茶の瞳なのに対して、希美は赤い腕時計を身につけており瞳は青みを帯びています。

 さらに終盤になるとよりいっそう露骨なイメージカットが現れます。画面中央に水気を含んだ赤と青が打たれ、次第にじわじわ浸透しあうのです。

 要所に登場するデカルコマニーのイメージカットもこの系列に連ねられるでしょうか。インクを垂らした紙を一度折り、左右対称な鳥の模様を生みだします。これが羽ばたくようにアニメイトされるのです。一羽の中に左右二つのイメージが折りたたまれているわけです。力加減によって生じる微妙な対称性の崩れが効果を上げています。

 左右反転といえば、二人の転機に決まって挿入されるパラレルモンタージュ(正確にはクロスカッティングとマルチスクリーンの合わせ技)も忘れられません。場所を違えた少女らを同時並行で対照しながら描くのです。しかも転機が訪れるのは2回きりなので、この手法を使ったシーン自体がデカルコマニーさながらの対称的な構成に仕立てられていました(この徹底のありようったら。。)。

 なお最後のパラレルモンタージュには、左右に揺れるみぞれの長い髪がそっと挟まれていました。たぶん本編中唯一のカットです。

 本来なら、振り子状のモーションは快活な希美にこそ似つかわしいはずです。例えば冒頭ではみぞれの主観ショットが、希美の弾むポニーテールへ引きこまれるように食い入っていました。かたやみぞれはというと、髪も含め全身が膨張したり萎縮する漸次的なモーションによって特徴づけられます。そんな彼女が二つの転機を越え自立に向かうまさにそのさなかの歩行シーンで、希美の快活さが乗り移ったかのようなモーションを見せるのです。あまりにさり気ないカットですが、二人の交換可能性を如実に示しています(不意をつかれてほろっとしてしまいした)。  

『映画 聲の形』と『仙台写真月間 2016』について

  • 2016.10.02 Sunday
  • 23:24

 10月に入り、ようやく秋らしく落ち着きました。9月は梅雨みたいでしたからね。この時期あんなにじっとり蒸したのは初めて。亜熱帯化してるのかしら。

 移住してきて以来、街並も随分変わったけれど、気象も例外ではないのだなぁ。。

 

 「仙台写真月間2016」公式ホームページより転載

 

 「FLORA #06」

  会期:2016.9.20 - 9.25

  会場:SARP space A(宮城県仙台市青葉区錦町1-12-7門脇ビル1F)

 

 さて、会期はとうに過ぎてしまいましたが、今年も仙台写真月間が開かれてました。台風の影響で、全部は見られなかったものの、あれこれ面白かったです。

 とくに、小岩(勉)さん。方法上の禁欲を解いて、はっちゃけてました。すごくいい感じ。いつもなら、人が写っていても風景(の構造)を優先させる構図が定番です。ところが一転、バストショットの被写体が導入されるや、それを切り返すばかりか上下反転、はたまた唐突に後退させたり、さらには同じ場所ながら人気のない一枚をカラーに調整して幕切れを飾っていました(写真はすべて黒白で撮影、RAWデータで保存。つまりカラーは後づけ)。

 合間に風景や植物のカットを挟むとはいえ(いつもより逆光多め。なのに階調豊か)、ゴダールばりのジャンプカットです。小気味よいリズムもさることながら、目紛しく変転する被写体との距離感、これが描きだす空間の鮮やかさといったら!吃驚しました。リテラルな被写体は人なのだけれど、一連の写真を通して結像するのは特異な空間です。

 藤棚から落ちる影のもと、手前には背を向けた少女がボケて写りこみ、肩越しに広場が眩しく照っています。奥へ誘われるまなざしは次のリバースショットで不意に足もとをすくわれます。正面からピントを合わせた途端、天地がひっくり返るのです。咄嗟に認知しうるのは中央を占める表情ばかり(誰の顔かより、真っ先に表情が察知される。とりわけ、微笑みを押し殺すかのような口許は印象的だ。大頬骨筋と口角下制筋のせめぎ合い)。これを頼りに、立て直しを図りつつ次の写真へ。すると、同じ面持ちのまま少女は陽光さす広場へ退き直立しています。

 方向感覚を失調した挙げ句、表情(あくまで顔でなく)を媒介に写真たちが架橋されるせいか、撮影地が実際にどうあるかなんて現実感は失せてしまいます。代わって、広場じたいが表情を帯び、微笑みを押し殺しているかのような実在感を放ちだすのです。最後に現れるカラーは、人という起源をさし引いたのちもなお残る表情、その等価物と考えられます(若干オーバー気味にみえる微妙な色調は、せめぎあう二つの筋肉の震えそのものだ)。実体を消し去りながら、笑みだけを置き去りにするチェシャ猫のような。

 

 ところで、やっとアニメ『映画 聲の形』(山田尚子 監督、2016)を拝見できました。

 素晴らしい。。

 前作『たまこラブストーリー』2015)では、監督の作歴上ひとつ集大成を遂げてしまった感がありました(当時の感想)。爾来この一年、どう進展なさるのか勝手にやきもき過ごすはめに。。でも、杞憂は綺麗さっぱり吹っ切れました。やっぱり山田さんすごい。別格です。

 

 

 原作マンガ(『聲の形』全7巻、大今良時 著、講談社、2013 -14)では、学童期のいじめを端緒に、いくつものテーマやエピソードが輻輳し、全篇をとおして厚みある世界が構築されていました。それを、2時間強に収めるにあたり、随所に大胆な工夫が凝らされ、スマートでありながら、かえって深みを増す結果に仕上がっています。改変や圧縮、切断など加工の作法の逐一が原作への細やかな解釈を示唆し(まるで精神分析の技法みたいに)、原作の世界をより豊かに、かつ装い新たに開陳してくれます。

 

 いっとう感動させられたのは、植野(直花)が出しぬけに「ハカ」と誤った手話で毒づく、終盤のやりとりです。ヒロインの西宮(硝子)は、面食らいながらも笑って「バカ」とやはり手話で訂正してあげます。これは、原作にはないシーンで、不意をつかれてついほろっとしてしまいました。

 しいて近しい光景をあげれば、西宮の妹(結絃)に、植野がふざけてお子様ランチを勧める条り(第7巻)でしょうか。横から眺めていた西宮は笑いを堪えられず、いつになく感情を露にします。さりとて映画の方が、二人の交感をより踏み込んで描いているのは一目瞭然です。

 耳の聞こえない西宮は、かつていじめの被害者でした。主犯の一人が植野です。高校生になった今も、植野は西宮を疎み、「感情が伝わらない」と筆談を拒みすらします。

 そんな彼女が仇敵の言語をまねてみせます。内容は例によって憎まれ口ですが。そして、さらに驚嘆すべきは、西宮の多義的な応酬です。リテラルには手話の指南に過ぎない身振りに、「もう、バカだなぁ」という親しみを込めた含みが託されるのです。全篇を通し、西宮が軽口を叩くのはこれきりです。彼女にとって言葉は終始、質問や謝罪など実際の用途に限られていました。

 植野が、相手の言語を自分の流儀に転用するや、鏡面反射するかのように、西宮は相手の身振りをなぞって、自分の言語を他者のように扱います。植野に誘い込まれる形で、西宮は初めて自己を相対化し、言葉で遊べるようになるのです。

 作中ずっと西宮は、みなのお荷物だとおのれを苛み、挙げ句自殺を図るほど自縄自縛に陥ります。耳が聞こえず、意思疎通の不如意な自分をどうしても認められません。そんな彼女にとって、くだんのシーンは福音だったのではないかしら。ままならない伝達は、絶望を強いる以上に、相手との交感を促してもくれるのです。障害の価値は反転します。

 ところで、映画はもとより原作においても、植野こそが、西宮をその自責の念から解放しうるキーパーソンのはずでした。誰よりも西宮を見透かしていたのは彼女を措いていません。いじめた罪を人一倍悔いる、主人公の石田(将也)でさえ、洞察は叶わなかったのです。ところが、その可能性を原作はみすみす流産しています。植野と西宮は平行線を余儀なくされ、不完全燃焼のまま幕を閉じます。無論、本筋は石田視点の成長物語です。ゆえに、あえて省くのも一見識であるには違いありません。少女らの絡みは、あくまで傍流の挿話に過ぎないと。

 しかし、映画における改変は、まさに、原作に潜むこのありえたかもしれない行く末に光を当てています。劇中の西宮ばかりか植野という存在(作品世界における意味)をも救済するのです。監督と脚本家(吉田玲子)の面目躍如です。『けいおん!』(2009)以来のこのタッグ、本当に凄いなぁ。。

 ちなみに、絵の方は、合わせ鏡のようなやりとりに倣ってか、対面を模して、正面ピンの主観ショットが交互に切り返されます。しかも、絞りを開放して輪郭を浮き立たせ、彼女らだけの特別な関係を仄めかしていました。周りに屯する友人をみなフレームから締め出し、背後を無人にする果敢な周到さにも感心しきり。

 

 語りだすと切りがないので、以下思いつくままに。。

 

 落下と浸水(川、池、雨、涙)は、作中繰り返し登場するモチーフです。前者は、自ら超えでるにせよ、撥ねられるにせよ、社会からの逸脱を象徴します。世間の水平的なコミュニケーションに対する、個における垂直の超越性。あるいは後者なら、水を膜とした媒介性を演出します。これらが、他のモチーフやカットと様々に重ね、組み換えられ、画面を味わい深く彩ります。

 

 例えば冒頭、少年たちは川への飛び込みに夢中です。非日常のエクスタシー目がけて、日常からの脱出が企てられているわけです。落下と浸水は、未だ他愛ない遊戯でしかありません。ところが、次第にきな臭い気配を纏い始めます。

 

 いじめられているにも拘らず、西宮は自分こそ迷惑な存在だと自責の念を抱えています。そこで「ごめんなさい」と石田に向って筆談すると、かえって不興を買い、ノートを池へ放られてしまいます。それを拾いに西宮が黙って入水するや、にわかにカットが飛び、同じ池で尻餅をつく石田がずぶ濡れになっています。当惑の避け難いモンタージュです。程なく、いじめを糾弾された成れの果てだと判明はしますが。とまれ、落下はクラスからあぶれた結果であり、浸水は孤立の証へと一変しています。

 かたや時間の圧縮は、否応なく二人をうち重ね、彼らの符合を強く印象づけます。双方、加害者と被害者の自覚を合わせもち、父を欠く家庭で育つなど。おまけに愛称までともに「ショーちゃん」です。

 

 つまり、落下と浸水は、孤立ばかりかスティグマの共有による連帯の可能性すら匂わせるのです。就中、水浸しになる経験は、体感を通して言葉を越える交感へ彼らを導きます。本作において、深い関わりが生まれるのは、決まって川へ身投げするか、雨に降られてずぶ濡れになるシーンばかりです。

 結絃と傘越しに対話する、石田の主観ショットは秀逸でした。画面上半分を傘が塞ぎ、微動するたび、合わせづらい互いの視線が暗示されます。わずかに覗く結絃の足もとが、面をあげられない心情を痛切に訴えます。そして、傘の傾ぎ具合は、雨に打たれる二人を思い起こさせ、芯から冷えるような感覚を生みだしていました。

 

 そういえば、一人称のナラティブゆえか、いつにも増して主観ショットに力が注がれています。人間不信の石田は、いつも伏し目がちです。必然的に足もとを俯瞰するカットが増えます。もとより、脚の演技には定評のある監督ですが、今回は新たに、床に反射する上半身も含めて演出をつけていました。

 あと、逆光の相手を仰ぎ見るショット。姿を見定め難い眩しさに、意思疎通のもどかしさが重ねられます。フレアやゴースト、それにアイレベルの低さも相俟って、子どもの目線らしい瑞々しさが漲っていました。手話の通じない石田相手に「友だちになって」と胸元で手を結ぶ西宮。あるいは、やはり彼女が、たった一度きり取っ組み合うシーン。ともに、炸裂する光に抗うかのようなシルエットが悲痛でした。

 

 ほかにも、レンズの歪曲や色の収差による演出がますます洗練されてたり(『響け!ユーフォニアム』(2015)以来顕著な傾向)。登下校時の上手と下手の逆張り。楽曲とノイズ、無音の配分など見所ありすぎです。

 そうそう、画面の端っこでちょこまかする姪っこのマリアと、それを気遣う将也とか。あちらこちら細やかな配慮が行き届いていて、つくづく痛み入ってしまいます。

 

 とりあえず、この辺で。。もう一回ぐらい見に行けたらなぁ。

 

2016.10.8 追記

 「大ヒット御礼舞台挨拶」の告知が!10/22(土)MOVIX利府仙台に、それぞれ10:30、12:05の回上映終了後。

 監督が仙台にもいらっしゃるのに、、残念!!仕事で伺えません。とほほー!

 

 あ、『君の名は』(新海誠 監督、2016)も見てきたのでした。こちらもすごく楽しかったです。ただ、ちょっと心残りがあったとすれば、風習の設定や組紐の伏線など、後づけっぽい薄っぺらさでしょうか(あと、頻出してた、開け閉めされる襖のローアップ、あれも何なんだろう?)。本来ならそれも含めて、セカイ系たる新海さんの持ち味のはずですが、今回は村という社会や実質的な恋愛、つまりリアルっぽい現実が描かれているせいか、悪目立ちしてた気がしてなりません。。

 

 

 ぐっときたのは、ヒロインの三葉が東京へ出向いて、主人公の瀧と電車で出会う矢先にすれ違ってしまうシーン。時間差という趣向がとびきり効いていました。三葉の失意と瀧にとっての予兆が、否応ない時間の流れ(電車の直進)のもと束の間おなじ空間(車両)において交差します。

 

 今年は劇場アニメの当たり年。あともう1本大物が控えています。『この世界の片隅に』(片渕須直 監督、こうの史代 原作)です。11月12日公開予定らしく、今からそわそわ落ち着けません。

 たのしみ。。

 

『マゼラン・マガジン』第2号出来!(でも後半は『たまこラブストーリー』礼讃)+ 長い追記 2014.6.4

  • 2014.05.25 Sunday
  • 12:44
 本題前にお知らせです。

 今年も、Book! Book! Sendaiの6月が迫って参りました。メインの一箱古本市をはじめ、イベントが目白押しです。弊店が参加させて頂くものには、くだんの古本市ほか、図録をテーマにした古本販売があります。どんな本が並べられるかな。ご期待くださいませー。
 それから、15日には、ご近所のメディアテークを会場に、トークや舞台も催されます。こちらもお見逃しなく!
店頭にてチラシを配布してますので、どうぞ〜。

2014.6.24-7.3
 「図録展」
 会場:Gallery TURNAROUND(仙台市青葉区大手町6-22)
 時間:11:00-20:00(日のみ-18:00/月曜休廊)

6.28
 「Sendai Book Market」
 会場:サンモール一番町商店街
 時間:11:00-16:00

※ スケジュールの委細は公式ホームページをご覧下さい。


 もう半月前のことで恐縮ですが、『河北新報 夕刊』(5月14日付)で弊店を紹介して頂きました。

 順を追って、町を案内する連載記事「までぇに 街いま」。春日町の番だったのです。担当して下さった記者さんに多謝!
ウェブ上でも記事が公開されているようです。よかったらこちらから。

 閑話休題。
 フリーペーパーの2号めがようやく出来ましたー。前号からちょうど丸一年、無計画ながら思いがけず切りよい完成です。
体裁は変わらず、A4コピー用紙を四折。そこに、まんがをあしらっています。ヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』から着想したエスキースです。
 あと、おまけもあります。といっても、既出のエッセイですが。。去年『河北新報 夕刊』に掲載して頂いたものから4本を選んでみました。


 まんがは、例によって読書をテーマにしています。結果、今回はひたすら落下する羽目になりました。コマばかりか、カメラアイや花びら、雨、あげくは、メインキャラクターが眠り/夢に落ちます。たぶん、ウルフ自身が「書くことは昏睡に陥ることだ」みたいな発言をしていたのが、どこか頭の片隅に残響していたのかもしれません。読むこともまた、私の意識の底を踏み抜くことなくしては済ませられない。

 ところで、最後のコマは、いつごろか就学する前後から折に触れて去来するヴィジョンを落とし込んでみました。吹きつける風がページを捲り、活字が折り重なって混線する。「わたし」をさしおいて、世界が勝手におのれを読解し続ける、という。そして、それが加速するあまり、あらゆる意味が振り落とされ、ことばがもの同然になってしまう。私に為しうることは、そこに身を委ねることだけ、みたいな。

 それから、今回は、アニメの影響が露骨に窺えて、ちょっと恥ずかしい。。まず舞台の東屋が新海誠の『言の葉の庭』(2013)まんまですし、風に吹かれる髪は山田尚子の『けいおん!』(2009-2011)です。昨年の暮れから視聴し始め、当初はこんなに感化されるとは思いもよらず、我ながら動揺というか、驚いています。
 とりわけ、おなじ山田監督の『たまこ』シリーズは、決定的です。テレビ放映された『 たまこまーけっと』(2013)のクオリティもさることながら、上映中の『たまこラブストーリー』(2014)の豊かさといったら!もう脱帽でした。ワンショットの密度がハンパなく(りんご、風船、花、天体などの小道具、落下、上昇、直進、周回などの運動、そのほか色や音など盛り沢山の要素や系を画面上に重ねては動かす)、また、それを切り上げるタイミングの小気味よいこと(余計な情緒を残さない。むしろ澱みを払拭し、カットを開放する)。それに、ロケーションの設定も的確で唸らされたのでした(外部へ開かれる河原と京都駅が、対になる決定的なふたつの出来事、すなわち告白と返答の起こるトポスとして、作中1/3の位置と最後に配され、鮮やかなコントラストをなす。河原では水平な飛び石を跳ねるのに対し、駅では階段を垂直に跳ね上がるとか)。あと、主人公を始めキャラクターの変化、成長を、通りのよい説明で間に合わせたりするのでなく、本当に丁寧な演出の積み重ねによって厚みを与えながら説得力を持たせる手際なんて(映画だけでも成立していますが、テレビ版からのちょっとした遷移もとても納得ゆくものに仕上げられている)、作り手の良心につくづく痛み入ってしまいます。

 そして、いっそう感動させられたのは、監督のこれまでの作歴から今作が導かれるにたる必然性です。そもそも、デヴュー作にあたる『けいおん!』では、女子高生だけからなる、緩くも細やかな日常が描かれていました。異性はもとより他者を完全に括弧に入れたうえで仮構された実験的な温室です。その安定性は、致命的な出来事を徹底的に回避する代わりに、ちょっとした仕種や空気感を、圧倒的な精度で表現しうる可能性を開いていたのでした。

 それが『たまこまーけっと』では、安定の起源、日常の裂け目を露呈することになります。変わらぬ日常の下に、それを支える潜在的な基層が見いだされるのです。母の死です。女子高生である主人公(たまこ)は、小五の時分に母(ひなこ)を亡くしており、以来家業の餅屋を手伝いながら妹(あんこ)の面倒をみます。自ら母の位置を占めることで、母を身近に感じ、その死を乗り越える選択がなされたわけです。そして、店が所在する商店街(うさぎ山)もまた、まさに母のように彼女を見守り、世話を焼きます。つまり、母の死を引き金として、主人公=母=商店街という同一化のブロックが、主人公が死守すべき日常のファンタスムを構成するのです。だからそれと引き換えに、この同一化を脅かしかねないものごと、例えば、思春期にありがちな多感さを伴う経験は、悉く反故にされるほかありません。母を担おうとする主人公にとってそれは邪魔なだけです。とりわけ、「性」に関わる問題は無意識の検閲によってあらゆるかたちをとってスルーされてしまう。幼なじみ(もち蔵)の恋心や同性(みどり)から寄せられる恋慕、それから娘の婚約話に動揺する父(豆大)のことばなど。1クール12話を通して、主人公は一貫して受け止め損ね続けます。これは、部活のバトンや、幼なじみとの糸電話のやりとり、あるいはトリックスターであるしゃべる鳥(デラ・モチマッヅィ)の扱い(じつは本編中、主人公がまともに彼をキャッチした試しがない。大抵主人公のあたまに止まる。というのも、南方から飛来した彼は、王子の花嫁探しの道中であり、性の象徴だからだ)などあらゆる局面で象徴的に反復されます。主人公の天然キャラは、フロイトよろしく自我の防衛機制によるものなのです。しかし、この天然(鈍感)さこそが、周囲の世話焼きを招き寄せては彼らを翻弄し、物語を活気づけることになっていました。
 ともあれ『けいおん!』同様、日常の安定性のうえに成り立つ繊細な表現も健在ながら、『たまこまーけっと』では、そこへさらに母の死という基層が深みを差すことで、表現の幅が広げられていたのでした。

 この道ゆきを踏まえての『たまこラブストーリー』です。前作で繰り返し触れられながらも、ついに抑圧を破られなかった「性」が真っ正面から取り組まれます。ついては、これは母の死とあらためて向き合うことを意味します。『けいおん!』以来描かれてきた、日常なるものが根底から問い直されるわけです。
 上映開始から1/3の時点で、幼なじみから、もはや無意識の検閲が失効するほどにストレートな告白がなされます。動揺のあまり、主人公はその場を逃げ出してしまう。そして、残り2/3にわたって、その克服に臨みます。度を越した戸惑いは、彼女の執心してきた日常がいよいよ危機を迎え、それも前作のような外圧ではなく、内輪、最も身近な幼なじみに由来するのだから尚更です。このあいだ実に丁寧な演出が張り巡らされるのですが、日常の基層、すなわち母の死に肉薄する、決定的なエピソード二つに絞って言及しておきます。まず、まだ母親が存命だったころ、主人公は一時的に餅が嫌いになります。というのも、くだんの幼なじみが餅をネタにしつこく彼女をからかうからです。ところが、ほどなくしてまた餅が好きになる。母を亡くして気を塞いでいた折もおり、餅を突き出して、腹話術さながら主人公を慰める人があったからです。当初それは父親だと思い込んでいました。ところが、作中後半、不意にそれが当の幼なじみだったことを思い出す(このシークェンスは特にぐっときます。。高校の教室に着席する主人公を正面から押さえたカットに上手からぬっと園児服に袖を通した幼い腕が突き出される。と思うや、90度パンしてフォーカスが手前の餅から奥へ移る。すると、既出のカットでは暈されていた顔(しかもその際は父の声がオフで被せられていた)がはっきり映しだされ、幼なじみが「ひなこちゃんに笑われるよ」と亡くなった母親の名前とともに語りかける。この、現実の空間に、記憶の腕がぬっと突き出るあのカンジ!←2014.5.28追記 きのう見直してきたら、完全に記憶違いでした!二つのシークェンスを勝手にリミックスしてました。お恥ずかしい。。しかもカメラワークもパンではなく、カットを割ってたし。とほほ。記憶って怖い。。)。つまり、主人公は、自分の記憶すら受け止め損ねていた。母の死とともに異性の記憶を見事に抑圧していたのです。それが、告白を契機として、あらためて受け止め直され、記憶が書き換えられる(この出来事は以後、バトンや糸電話をちゃんとキャッチする雛形になっています)。抑圧が明るみにされるや、そのうえに構成されていた主人公=母=商店街という同一化のファンタスムも当然揺らがざるをえません。「性」の抑圧の上に建てられていた日常が、「性」の再解釈によって建て替えられる余地が生じるのです。日常は、固着して頑なに守り通すべき城ではなく、つどに応じて更新される柔軟な仮住まいとして再定位されます(かんな風)。
 そして、次ぎのエピソードに至り、先に揺らがされた同一化のファンタスムは、完全に組み替えられることになります。精神分析でいう徹底操作が遂行されるのです。
 告白されてから、主人公は、あるカセットテープをそぞろに聞き返すことになります。高校時代バンドを組んでいた父親が、当時、告白代わりに母親へ送った曲が収録されています。作品も終盤、妹と談話するうち、例によって掛けていたテープが巻き上がり、自動的に裏面が再生されます。すると、それまで気づきもしなかった曲が流れ出す。母親の前口上も添えられたそれは、「告白された時は驚いて逃げてしまい、ごめんなさい」と始まる、彼女からの返歌だったのです。主人公は知らず知らずのうちに母親の歩んだ道を辿り直していたわけです。告白されて逃げ出し、遅れて答える(しかも、媒介を挟む点まで踏襲される。両親はカセットテープと歌だったのが、主人公たちは糸電話を介して繋がる。ちなみに、幼なじみがまわすデジカメや、母親の記憶すなわち人称性を欠いた基層の表象を写したフィルムのカット、あるいはテレビ版のしゃべる鳥がもつ映写能力など、媒介のテーマも大きな連鎖を形づくっている)。オイディプス王ではありませんが、運命の符合を前にした主人公は、それまで自ら母の位置を代補しようと遮二無二やってきたものの、ここにきて初めて受け身に立ち、運命を引き受ける強さを獲得します。当て込まれた日常を死守するのではなく、降りかかる運命を受け容れることで日常をつくり直してゆく。主人公=母=商店街のファンタスムは、安易に放棄されるのでなく、意味を致命的にひっくり返すことで新たな日常として受け止め直されるわけです。この直後に、しっかり本番でバトンをキャッチし、幼なじみへの返答を成功させます(それも、片方だけ手渡すべき糸電話を、ひとまず間違えて両方投げ渡してしまい、それをまた片方だけ投げ返させてキャッチするという、文脈上深く頷かざるをえない憎い演出がなさていました)。

 『けいおん!』で、所与として描かれることから始まった日常なるものの探究は、『たまこまーけっと』でその基層を炙り出し、『たまこラブストーリー』に至って意味を根こそぎ刷新するまでに達します。この不可逆ゆえに真摯な足取りには心底畏敬の念を禁じえません。本当に本当に、すごい。。

 仙台でもまだ上映してるようです。未見の方はぜひ。長町のmovixです!テレビ版は広瀬通りのTSUTAYA他でも借りられます。。ってフリーペーパーを紹介してたつもりが、勢い余って山田監督礼讃になってしまった。。もうフリーペーパーは二の次で構わないので、少しでも興味の湧いた方は『たまこ』シリーズ見て下さーい!

2014.6.4 追記

 上の記事、一貫性を追うあまり「母の死」を強調し過ぎたかも。。ちょっとだけ補足。
 まず、「母の死」はあくまで日常に潜在する基層であり、原理的に顕在化しようのないものです(あるいは、顕在化してしまえば、もはや基層の役割を担えない)。だから、あからさまな描写は省かれるほかなく、実際、仄めかされるに留まっています。かといって、描かないことで逆に虚焦点として一切をそこへ収斂させる、なんて演出にも傾かない。むしろ、終始、内省や悲痛さを周到に避け、余計な重みがきれいに払拭されています。「母の死」は、作品を縦に貫く基層ではあるものの、必ずしも絶対ではないのです。じつは、もうひとつの日常が、作品を横から織り上げています。南方からの闖入者や級友との交流です。彼らは、主人公=母=商店街のブロックからは切れた他者でありながら、なおかつすぐそばに住まう居候であり隣人です(ただし、みどりともち蔵だけは両義的。彼らは「母の死」に立ち合っているうえ、本人もしくは身内が商店街の住人。しかしだからこそ、たまこにとって特権的な位置を占めうる)。
 そして、これら異質なふたつの日常が触発し合うことによって、活劇が生みだされる(例えばデラとのドタバタ)。本作の魅力のひとつはおそらく、この輻輳する日常を極めて洗練されたかたちで示してくれる演出の手並みにこそ由来します。この点、とてもおもしろい読解をなさっているブログ記事に行き当たりました。「日常生活の暗号解読術:『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ」(『The Day After Yesterday』)です。以下、これを要約しながら拙文の文脈へ敷衍しておきます。他者を交えたやりとりのうちに、彼らの思惑を越えでるコミュニケーション、つまり活劇が生じる瞬間を捉えています。

 『たまこまーけっと』2話。放課後、英語の課題に取り組むたまこが構文を呟く。「not only A,but also B…」。そこへみどりが助け舟をだす。「AだけでなくBも。だから、『彼らは言葉だけでなく心もまた大切に』」。これは、同性のたまこへ思いを寄せる彼女が、その胸の内を例文に仮託した吐露でもある。むろん天然の(鈍感な)たまこは気づかない。一方、たまこの髪を弄っていたかんなが不意に「あ、枝毛(エダゲ)」と洩らす。「Aだけ(エーダケ)…」という訳文から導かれた、無意識による駄洒落だ。しかしこれがさらに、反射的な振るまいをたまこから引き出すことになる。「みどりちゃん、髪きれいだね」と、みどりの髪に手を伸ばすのだ。不意をつかれたみどりは、なされるがまま、無防備にも潤んだような瞳を湛えてしまう。

 「たまことみどりの意識的なダイアローグに、かんなの無意識が作用した結果、予想を越えたコミュニケーションの連鎖(たまこがみどりの髪に触れる)が引き起こされ、抑圧されていたみどりの恋心が露わになってしまったのだ。翻訳不可能な彼女の恋心が、無意識によって鮮やかに翻訳されているのである」(「日常生活の暗号解読術:『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ」(『The Day After Yesterday』)より)

 くだんのブログでも指摘なさっているとおり、かりに、たまことみどりの二人きりだとしたら、一連のやりとりは起こりようがなかったはずです。というのも、先述してきたとおり本文脈上だと、母を担うたまこにとって、性はスルーすべき問題です。しかも、みどりもまた彼女の習癖を知っているが故に余計な発展を望むべくもないからです。ところが、かんなばかりは、そうした事情を共有しておらず、関知せずに済む存在なのです。そのため、彼女だけが何食わぬ顔で、あらぬパスをさし出す余地を開きうる。いきおき、たまこの天然が乗っかり、ついにはみどりの情動を漏出させてしまったというわけです。ともあれここに、「母の死」に依拠する日常(たまこ=みどり)とそれとは無縁な日常(たまこ=かんな)の、両者が繰り広げるショートサーキットを見てとることができます。
それにつけても、先のシャープな読解もさることながら、こんなシナリオなり演出をひねり出す京アニチームって。。アニメをつくる集団作業って、作中のかんなたち同様、無意識の掛け合いが強く反映する気がします。演出さん(この回は三好一郎さん)はもとより、数多くのスタッフが実際に手を入れるわけだし。興味深いです。

 最後は蛇足です。
 次ぎのシークエンスでも、同じく情動の溢れるさまが、一般的なドラマ(現前する意識)と特殊な欲望(無意識)の交錯にさりげなく描き出されています。ただしこんどは、ことばでなくものが媒介に充てられます。

 『たまこまーけっと』10話のクライマックス。バトントワリングの振り付けを請け負うも、何も思い浮かばず悶々と過ごすみどり。やがて彼女は、持ち前の責任感とプライドから、独り窮してしまい、学校を休んでしまう。そこへ、事情を知らないたまこらが、風邪を見舞うつもりで訪れる。程なくして、かんなが紙くずの山を発見するや、咄嗟にみどりが奪いとる。ままならない振り付け案が書きつけてあるからだ。やがて訥々と打ち明けるに及んで、みどりの涙が止まらなくなり、鼻水までたらしてしまう。堪らずたまこが抱きつくと、史織が慌てて鼻紙を探しだし、それを受けてかんなが鼻をかんでやる。

 みどりの自意識が、みなのおかげで一皮むけるという、ほろ苦くも誰しも身に覚えのあるようなドラマです。ところが、じつは涙のきっかけだけは、この自然な筋から逸れたところに見いだされます。潤んだ瞳の先、切り返して示されるのは、くまのぬいぐるみです。みどりにとって、これはたまこの代わりであり(「たまこがいなくなるのを喩えるなら、くまをとりあげられるようなもの」という発言が11話にある)、強がりな彼女にとって気を許せる貴重(ほとんど唯一)な存在です。在宅中は肌身離さず抱えています。くまを前にするや、常にみどりは警戒を解いてしまうのです。直前のシークェンスでも、たまこから電話越しに進捗を訊ねられた際、やはりくまに射すくめられ、狼狽してうまく誤摩化せなかったのでした。
 では、ぬいぐるみを手配したのはだれでしょうか?かんなをおいて他にいません(またしても!)。部屋へあがった当初から、かんなの膝の上に抱えられ、カットを割るたび彼女のそばで位置と姿勢を細かく変えていました。理由は特定できないものの、彼女の性格から察するに、こうした小さな悪戯をいかにも仕込みそうではあります。ひょっとしたら、取り乱すみどりを安心させようと気を配ったのかもしれません。他方、少なくとも、みどりにとっては出し抜けだったに違いありません。ふだん触れるかそばにあるはずのものが、与り知らぬ間に、向こうから自分を見つめていたわけですから。ただでさえ、無防備を強いられるのに、そのうえ虚をつかれたとなれば、みどりが堪えきれなかったのももっともです。


 涙がこぼれる直前のくまは、史織の方を向いている。しかし、彼女と視線が合うことはついぞない。


 あふれる涙。この視線の先が切り返しで次ぎのカットに示される。


 かんなの仕業か、みどりと鉢合わせしてしまうくまの視線。


 たまこたちの畳みかけるような慰めがひと段落すると、また元どおり向き直る。デラちゃんの舞いを見守るくま。

 かんなの出来心が、くまを介して思いもよらず、必死に堪えるみどりの瞳を決壊させます。このとき救われるのは、必ずしも責任やプライドからだけではありません。くまを巡る欲望のエコノミーそのものが同時に購われているのです。というのも、ぬいぐるみに泣かされたみどりを見て、それを埋め合わせるかのようにたまこが抱きつきます。みどりの涙を蝶番に、くまとたまこの等価交換(みどりのファンタスム)が象徴的に実現されるわけです。そこへ遅れて、かんなが己の気まぐれを償うかのように鼻をかんでやる(こうした経緯がなければ、史織が適任だったはずなのだ。何しろかんなよりみどりの間近にいて、しかも鼻紙を確保していたのは彼女なのだから。しかし、彼女はくまを巡る欲望のエコノミーからは端から切れている。くまに触れさえしない。それゆえ権利がないのだ)。いうまでもなく、これは誰にも現前することのない、みどりの意識下に限られたファンタスムです。実際には、一般的な善意の連鎖が描かれているに過ぎません。しかし、このシークェンスにただならぬ厚みをもたらしているのは、紛れもなく一般的なドラマ(意識)と特殊な欲望(無意識)の交錯であり、それを支える要こそ、欲望の原因たるくま=たまこなのです。
 (念のため、補足の補足。これは何も、くま=たまこがみどりにとって、ラカンのいう対象aなのだ、とかいう分析が目的なのでなく、みどりを描く演出(この回は小川太一さん)の妙を指摘したかったまでです。ちなみに、上のシークェンスは、みどりがかつて愛用していたであろう、おもちゃの仕舞われた段ボール箱が、箪笥のうえに煽りで抜かれて終わります。またこの前には、振り付けに悩み焦るみどりが、意識するともなく、祖父の営むおもちゃ屋さんに足が向くシーンも描かれていました。つまり、ふだん姉御肌の彼女にとって、おもちゃ=幼少期との紐帯には、誰にも明かせない(おそらく本人ですら)秘密があり、上のシークェンスは、それが一般的なドラマと交錯することで非常に効果的な演出に結実しているわけです。たぶん、秘密とは、小四で転校してきたみどりが、小五になって母を失うたまこと培ってきた因縁なのは間違いありません。ただし、それは賢明にも作品の背景(日常の基層)へ留めおかれています)

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