おとなりさん

  • 2016.03.25 Friday
  • 22:39
 ずいぶん間が空いてしまいました、ブログを更新するの。まぁ、毎度のことですが、いざ筆をとるとなると、なんだかバツが悪くて、もじもじしてしまいます。。
 他方、リアル店舗の方は、お陰さまでいつもどおり、のんびり営業しております。近ごろ越していらしたという方が、散策がてらお立ち寄り下さったり、逆によく利用して下っていたお客さまが転勤なさると伺ったり。もう春なんだなぁなんて。

 ところで、ここ一年、空地のままだったお隣に、いよいよ何か建つようです。伺えば、木造2階建て。フロアごとに各1件ずつテナントを募られるとか。以前はモルタルの古いビルに、お弁当屋さんともなか屋さんでした。さて今度は?何屋さんが入居なさるのかしら。そわそわ。
 ちなみに、もなか屋さんはわりとお近くに移転されて、変わらず営業なさっています。時おり場所を訊かれるので、こちらでもお知らせしておきますね。
 くじらもなか本舗(仙台市青葉区木町通1-2-18、022-261-4490)

 というわけで(?)、当分、お隣の工事は続くようですが、弊店はもちろん連日開店しております(ただし火曜は定休日。ご注意を!)。ご来店お俟ちしてます〜。

 話は変わり、昨年来読み継いで参りました、くらもちふさこさんのまんが。それがようやく既刊分すべてを読み終えられました(とはいえ十数冊ほどですが)。残すところ目下連載中の『花に染む』のみ。

 『天然コケッコー』第7巻、くらもちふさこ、集英社文庫、2003、90頁。
  この話数では、28頁ほぼ全ての見開きが、右頁に対称するカップルのアップ、左に風景を擁する彼らのロングを配して、リズミカルにコマを進めます。イマジナリーラインの目紛しい変遷(ずっとすれ違いが重なっていた挙げ句、この直後に距離をおくことになる二人です。だから、当シーンでは、お互い以上に自分に対してすら探りを入れるような超絶微妙な目線の演技がくり広げられる)をフレームでコントロールしきる右頁の巧みさもさることながら、その二人だけの世界へ機械的に休符をさし挟む、左のショットの効果たるや。つくづく溜め息を洩らさずにはいられません。。


 それにつけても、構成の緻密さと密度がとにかく凄い。。80年代半ばから、とりわけ、90年代以降の作品は、読んでる間ずっとあっけにとられっぱなし。そして、現在進行形の『花に染む』とその序章たる『駅から5分』からなるシリーズは、その匠の技を発展的に集大成する趣を呈しつつあります。
 『駅から』は、ある街の住人たちが織りなすオムニバスです。互いに無自覚のまま、知らずしらず関係しては波紋を残しあう絶妙な間合いが描かれます。一方『花に』は、主人公ひとりの半生です。過去のしがらみを絶ち、一からやり直すべく当該の街へ越してくる前後が語られます。
 つまり、前者が街を精査して空間(他者との関わりからなるネットワーク)に厚みをもたらすとしたら、後者は人を掘り、時間の暗い深みに迫ります。そして、白眉は両者の絡み合い。読み進めるごと、以前のエピソードやシーンが逆照射され、意味が膨らんだり塗り替えられたり、あたかも切り子細工のようにきらきら様相を一変させます。街の広がり(他者とのかかわり)が内面をほぐして多孔化し、内面の数々が街の広がり(他者とのかかわり)を多彩にいろどります。例えば、少女が木の上に風船を引っ掛けて、それを行きずりの主人公が無造作にとってやるシーン。これが、視点やエピソードを代え、つど異なる価値を帯びて変奏される。
 これほど複雑に組み上げておきながら、一向に破綻がなく、しかも、にも拘らず予定調和へすら至りません。くらもちさんらしいといえばそのとおりなのだけれど(いや、そうでもないか。ややぎこちなさがあとを引くのもあります。『おばけたんご』とか『月のパルス』とか。それはそれで魅力なんだけど)、大伽藍の威容ばかりか、そこを吹き抜ける風通しのよさをも両立させる手腕。これはちょっとした事件だと思います。

 『同上』第9巻、236頁。
  最終回直前であるこの話数は、人間関係からいったん身を剥がし、村を巡回するねこの一日を追って終始します。その道ゆく先々には、これまでのエピソードの顛末や気配が濃厚に立ちこめています。だけど、ねこ目線ゆえどこか他人事、いいヌケ具合です。しかも彼があちこちでごろごろ油を売るたび、村の穏やかな自然とゆっくりした時間がじわりじわり露呈します。個性豊かな人間模様の数々は、村というおおきな叙事詩の一篇として再編され、村そのものの奥深い滋味となり、全篇へ向けて染み広がるまでに及びます。


 じつは、本日3/25(金)は『花に染む』最新刊の発売日なのでした。第7巻です。

『みんなのミシマガジン』の「今日の一冊」で選書しますー。

  • 2015.08.02 Sunday
  • 14:24
 本題前に、、お盆期間中の営業につき、お知らせです。
 例によって、とくに店を休む予定はありません。時間も平常どおりです。
 ので、どうぞお越し下さいませ〜。

 閑話休題。

 『みんなのミシマガジン』は、東京の出版社であるミシマ社さんが営むWebマガジン。その一角に、選者が連日入れ替わり立ち替わり、本を紹介するコーナー(HPの中央左)があります。それが「今日の一冊」です。ご縁があって、ぼくも不肖ながら担当させて頂くことになりました。あす8月3日(月)〜7日(金)。ほんの5日間ばかりですが、ご一読頂けたら幸いです。。
 誌面じたい、毎日更新されて多彩な記事が楽しめます。拙文はさしおいても、まずはWebマガジンを覗いてみて下さい。フリーですよ。ぜひ!


 200字という以外とくにお題など制限もなく、現在流通しているものであれば何でもというお言葉に甘えて、自由に書かせて頂きました。さりとて、絶版やら品切れのものが存外多く、当初は焦りましたが。。
 一応、紹介する本を予告しておきまーす。

※ 時間が経ったので、本文をこちらにも転載しました。

8/3(月)
 『狼の群れと暮らした男』ショーン・エリス、築地書館、2012、¥2400+税
   

 狼の家族になりたい。その一心から、著者は単身ロッキーの原野へ潜り、あげく2年間も野性の狼と暮らした。本書はその記録を含む彼の半生だ。想像以上に知的な狼の生態も興味深いが、それ以上に著者の並外れた情熱には崇高さすら覚える。彼は何度も殺されかけてなお、一線を越えない狼に感銘を受け、繰り返し承認される喜びにうち震えるのだ。狼の掟に進んで身を捧げる姿はどこかユーモラスでもあり、マゾッホの小説を思わせる。


4(火)
 『動いている庭』ジル・クレマン、みすず書房、2015、¥4800+税
   

 著者の手がけた庭はよく動く。生長するばかりか字義通り、草花自ら移ろって園路の再考を迫るまでに及ぶ。殊に周期の短い草本種など種子を撒きつつ転々と、群落を結びつ解きつ有利な環境へ拡散してゆく。植物もまた人と同様、庭に作用するアクターなのだ。庭師の務めは、変化の兆しを解釈し応答を試すこと。著者によれば、人為と自然の別なく両者が織りなす遊戯空間こそ庭と呼びうる。その実践が、美しい図版を付して紹介される。


5(水)
 『アゲインスト・リテラシー グラフィティ文化論』大山エンリコイサム、LIXIL出版、2015、¥2700+税
   

 公共の至る所に名前を書き記すグラフィティ。60年代末ニューヨークに発し、90年代からはより広い実践であるストリート・アートを分岐させつつ今も進行中だ。本書はその変遷の機序を明快に案内する。例えば、当初は地元に根ざす通り名だったのが、活動が広がるにつれ、出自に関わる要素を削ぎ落し、判読不能な造形にまで暴走してしまう。キャラとして自立するのだ。それが、オタク文化と照らされもして特性が浮き彫りになる。


6(木)
 『この世界の片隅に』前・後編 こうの史代、双葉社、2011、各¥590+税
   

 佳境、焼夷弾が、絵を嗜む主人公から利き手を奪うや、作者自らペンを左に持ち替え背景が歪みだす。それは心象描写を越えて両手の非対称を印象づける。物語を紡ぐ右と抵抗する左。これは日常と戦争、呉と広島、作中の月日と実際に掲載された月等様々に変奏されてつど一方への偏向が執拗に慎まれる。虚構と現実は排斥し合うのでなく、むしろ両者の交通をこそ作品は促す。無い右手の綴る逸話が現実の浮浪児へ短絡する結末は圧巻だ。


7(金)
 『星座から見た地球』福永信、新潮社、2010、¥1500+税
   

 作中交わることのない年少の4名、各自の挿話が小分けに順繰り語られる。だが、読み進めるうち時系列はおろか彼らの同一性すら怪しくなる。他方で、細部や状況が共鳴しては目配せし、各話の記憶がショートする。描写にリアリズムを託すのではなく、むしろ記憶が象る星座にこそリアリティが宿りうる。だから本作は、読む過程にのみ、仮の定点たる地球としてしか存在しえない。読者とは星座の謂であり、読むたびに結い直されうる。



 ちなみに『この世界の片隅に』は来年、アニメとして映画公開されます(公式HP)。
 原作がまんがというメディウムに目を見開かせてくれる傑作なだけに、多少の不安は拭いきれないものの、、でもでもとっても楽しみなのです。

 映画「この世界の片隅に」特報1

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仙台文庫創刊! 続

  • 2011.02.11 Friday
  • 17:52
 引きつづき、今回も仙台文庫の創刊タイトル、うち残り1冊をご紹介いたします。
 著者は、前回の前野さん同様、仙台ゆかりの方。齋正弘さんです。もう30年も、宮城県美術館で教育普及を担当なさっています。
 本書は、その実例報告と理論化の試みです。とはいえ、議論が専門領域に閉じることは決してありません。むしろ、豊富なエピソードと噛み砕いた論調が、小気味よいほどです。
 そして何より、書中再三立ち返る場所というのが、子どもも大人もみな立ち到らざるをえない、普遍的な問題なのです。すなわち、見ることそのものの基礎です。

 『大きな羊のみつけかた 「使える」美術の話』齋正弘 著、メディアデザイン、2011、¥940+税
   目次:
    まえがき
    美術を使おう
    保育園児と大学生のための「美術を考える授業」
    小学生と中学生のための「美術って、本当のところどうなんですか?」
    美大の学生のための「写真機ができても絵を描くことを続けるのはなぜか?」
    美術/図工の先生のための「美術/図工教育は何のためにあるのか?」
    美術館を使おう
    美術としての教育、教育としての美術(宮城県美術館から見た美術教育)
    学校と美術館の連携のために
    表現行為としての鑑賞(本物を見るということは、何を見ることなのか)
    美術であるということ(障害者美術展に関わって)
    質問に答えて
    美術の使い方・実践編
    あとがきとして


 「ものを見て判断する場合、依るべき規準として使う事ができるのは、その時、その人の脳に、既に保存されている記憶、又は経験だけです。鑑賞するときに使えるのは、実は、それをしている人(注:ここでは、とりわけ子ども)が既に知っていることだけなのです。そのとき彼らに教えられることは、既に持っているモノの使い方だけで、新たな智識や技術が、今まさに使おうとしているその時点で入ってくることは、むしろ混乱や、自分の記憶、経験に対する自信のゆらぎにつながります」。

 だとすれば、子どもにとって、この際「作者の想い」や「美術館の権威」など余計な知識は度外視されなければいけません。むしろ、今ここの経験に留まり、見えるものに内在すること。そして、記憶もろとも身をそこへあずけることこそ要請されているのです。
 そのうえで、そこから立ち現われるヴィジョンを捉まえること。つまり「『作品から読みとれることだけ』を使って、『自分のお話』を『組み立てる』作業」だけが、「鑑賞」教育を結実させるのです。受け身の授業法と対比して、齋さんはこれを「表現として見る行為」と呼んでいます。

 しかし、そうすると、大人が子どもにしてやれることなど、何が残っているというのでしょうか?なにしろ、知識や見方の教授には、もはや正当性がないのです。

 「彼ら(注:子ども)に伝えるべきは、新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分の既に持っている情報をどのようにそこに絡んで使うか、というような部分です。既に知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが、自ずと見えてきます」。

 したがって、大人も、子どもが作品に内在するように、作品に内在する子どもに内在する必要があるわけです。子どもが作品のどこと触れ合い、その接点がどこへ延びようとしているのか(「接点をどこへ延ばそうとしているのか」ではない。あくまで主語は接点だ)。大人の役目は、それを鋭く察知し、すげなく絶やさないよう現場を微調整することに限られます。

 そして、まさにその実践の記録にこそ、本書の賭金が張られています。
これは、知識とは異なり、体系化することはついぞ叶いません。徹頭徹尾、齋さんの経験に根ざしたものであり、その固有さを差し引けば、ほとんど意義が失われてしまうでしょう。
 その経験は、ただ読み、辿り直されることを通して再構成されるより他ありません。しかし、だからこそ、内側から多様な気づきやヒントが得られるはずです。

 本書の射程は、美術や教育だけに限られません。美術をとおして、世界との関わり方が示されている以上、すべての人(生物)に宛てられています。色んな方に応用して頂けたら嬉しいな。
 仙台文庫『ブックカフェのある街』(前野久美子 編著)とともに、弊店にて扱っています。ぜひどうぞ!

仙台文庫創刊!

  • 2011.02.03 Thursday
  • 13:47
 つい先日1月31日、ついに仙台文庫が創刊されました!おめでとうございます!
 まずは、代表の大泉浩一さんをはじめ、関係者の皆さま、本当にお疲れさまでしたー。
 じつは、弊店では、思いのほか早く入荷させて頂き、こっそり先行販売していました。それがこの度、正式に創刊の運びとなりましたので、あらためて当ブログでもご報告させて頂こうと思います。

 創刊タイトルは、予告していたとおり2点。
 仙台でbook cafe 火星の庭を営む前野さんと、宮城県美術館で教育普及を担当する齋さん。おのおの生業ならではの著作です。

 まずは前者をご案内。後者は次回ご紹介いたします。

 『ブックカフェのある街』前野久美子 編著、メディアデザイン、2011、¥940+税
  目次:
   第1部 ブックカフェの小さなドア(前野久美子)
    火星の庭物語
    私が出会ったブックカフェ
   第2部 街と人と本と
    1 街の中の本の風景
     いろいろなブックカフェ(書本&cafe magellan 高熊洋平、stock gellery&atelier 吉岡英夫)
     本をつくる人に合う(圭書房 留守晴夫、アトリエ葉 岡田とも子、仙臺文化 渡邊慎也)
     夜の文学散歩 佐伯一麦
    2 街の中の本の記憶
     文学のかけらを探して、まち歩き(西大立目祥子)
     仙台を通過した作家 岩野泡鳴(佐藤純子)
     江戸時代の仙台を生きた只野真葛という女(早坂信子)
     俳人 佐藤鬼房と塩竈(関根かな)
    コラム 尾形亀之助 菅原克己 古山高麗雄(荻原魚雷)</span>

 二部構成のうち前半は、「火星の庭」のこれまでが、開業前の道のりも含めて赤裸々に(!?)綴られています。そして、その過程でひとつのアイディアが結晶します。店=街という定式です。
 印象深い一節を引用します。旅先で出会ったブックカフェ「globe」を糸口に、お店と街の関係を鮮明に浮き立たせています。

 「globeの空気、それはプラハの街と切り離せないものだ。プラハの時間の流れ、人の暮らし、街の景色がglobeのなかに流れている。カフェはカフェだけでは成り立たず、いつも街の空気を留めては満杯になったら、少しずつ外(海)ヘ注ぎ出している川のようなもの。カフェを営む人は、川を見守る岸辺の番人。通行人や船で渡る人のお世話をする。川は少しずつ変化をし、一生懸命お世話をしても街が荒んできたら川も汚れる。もしかして、水が涸れてしまうかもしれない。街と川は共同体なのだから」。

 注目すべきは、店も街も、同じ水流、つまり水分子の群れだという指摘です。
お店は、街に浮かぶ島ではないのです。そうきっぱり境界を引けるわけがありません。ましてや、無闇に両者のヒエラルキーは認められません。
 ところが、大上段な都市計画や大手のマーケティングは、この境界線を前提に、場を設計してしまいます。いうまでもなく、それでは抽象的たらざるをえません。
 いっぽう前野さんにとって、そうした粗雑な境界線など問題外です。彼女は、矢継早に多様な分子(人、店、街)と接触しては、多様に群れ(旅、井戸端会議、イベント)を形成し続けます。境界線は、その持続の果ておのずと齎されるより他ありません。街も店も人も、彼女にとってはみな同じ。論理階梯を踏み越え(踏み外し?)短絡しながら、次々と接続してゆきます。本書には、その軌跡がそのまま彼女の半生として書き留められています。
 だとすれば、本書じたいがその軌跡の最前線にあたります。それは、仙台文庫を立ち上げたライター大泉さんとのカップリングは云うに及ばず、本書の後半に一挙に噴出します。

 後半は、前野さんにこれまで接触した人や店、そして街がどっと召喚され、驚くほど無造作に盛られています。新興のブックショップや出版社。地元の近代史を発掘する郷土史家。それから、地元在住作家が開く読書会の風景。なかには、地元書店員が嗜む漫画まで。ほとんど支離滅裂です。
 しかし、この纏まりを欠いた分子どうしのはざまこそ、前野さんの本領、ひた走るフィールドだったはずです。つまり、本書は、この多様さをとおして、彼女の活動をパフォーマティブに反復しているのです。

 本書が体現するのは、前野さんに出会った人や店、そして街が接続、短絡し続けるプロセスそのものです。ただし、それは必ずしも彼女の個性にのみ由来するわけではありません。無論、前野さんが存在しなければ、ここに記された軌跡も残されることはなかったに違いありません。しかし、このプロセスじたいは、ふだん意識せずとも、誰しも暮らしのなかで避けようもなく経験している、生の条件そのもののはずです。
 あらためて、そこから周りを見直し、プロセスを多様に開くこと。本書は、しきりに読者をそう促して已みません。

 もちろん、収録記事はどれも独立に楽しめます。とりわけ、前野さんの、転職と移住を繰り返す半生はハチャメチャ掛け値なしに面白いです(ご本人には失敬!)。それに、早坂信子さんによる只野真葛の紹介も貴重。
 ぜひお手にとってご覧下さい。よかったらお買い求め頂けるとなお嬉しいです!

 最後にひとつだけお知らせです。

 風の時編集部公式ブログより転載

 先月末にて、ひとまず幕を閉じた、古本とアンティークの蚤の市「+R part2」。
 あらためて、お越し下さったお客さま方に感謝申し上げます。ありがとうございました!
 そして、各参加店舗の方々にもお世話になりました。深謝です!と、舌の根も乾かぬうち、あさって2/5(土)からpart3として再会することが決定しました。
 補充もしてますので、またぜひ遊びにいらして下さいね!会場は同じく、kuraxの2階。会期は、今月一杯です。

 「+R(プラス・アール)part3」
  期間:2011.2.5.sat.-2.28.mon.
  会場:kurax(クラックス)2F(仙台市青葉区一番町3-3-1)
参加店:
Book : 火星の庭+マゼラン
Art : birdo flugas
Antique : ISHINNHYGGEBUKOWSKI(ブコウスキー)
Sweets : Daily's muffinSweet Spice AsanoNYAU(ノワイヨ)
  備考:「プラスアールは付加価値だったり、手にする喜びだったり、reabsorb(再吸収する)、reconcile(調和させる)、relax(くつろぐ)など色々な「R」が頭文字となる言葉の意味を、参加するお店の雰囲気とあわせて商品を提案します」。(チラシより転載)

新年の読書

  • 2011.01.20 Thursday
  • 17:18
 買取の山から1冊、なんの気なし手に取ってみたら、これが滅法おもしろく一気に読んでしまいました。
 年末に読んで激昂した『ゴダール的方法』(平倉圭)とも思いがけず共振して(再帰的な分析手法や認知科学の知見、そして何より経験への内在がそのまま分析のための距離を確保する危うい手際!)無闇に興奮してしまった。
 古本屋をやっていなければ、見過ごしていたかもしれません。買い取らせて頂いたお客さまに感謝!いっぽう、仕事が滞り、ただいま挽回中です。。

 『リハビリの夜』熊谷晋一郎 著、医学書院、2009

 著者は、脳性まひでありながら、現役の小児科医。その彼が、じしんの半生を綴っています。
 なんていうと、つい同情や共感を呼んだり、困難の対処法を紹介したり、とかく読者の癒しや問題解決がウリ(そういう消費的な指向は、急場しのぎにこそなれ、何も生みだしません。せいぜい現状肯定が関の山です)のようですが、本書はまったく違います。
 むしろ、じしんの体験をとおして、リハビリの歴史や思想の問題点を生々しく炙り出しています。しかもそれが、とても客観的に、エレガントかつクールな筆致で認められているのです。

 そして、本書最大の魅力は、その客観的な分析が、外在的な視点からの対象記述だけに収まらない点にかかっています。
かえって、それは、脳性まひを監視する暴力として批判の俎上にすら上せられています。
 たとえば、リハビリにおけるトレーナーは、脳性まひを客観的に観察し、その身体を操作しようと働きかけます。他方、脳性まひの身体は、それを受け入れようとしながらも不可能ゆえ余計に筋肉を強張らせてしまいます。
 外在的な観察は、事態を効率よく運用するには適していますが、目の前の具体的な身体とは金輪際関係を結べません。

 いっぽう、彼の分析は、みずから実際の行為をとおして初めて浮上する諸単位の記述から出発し、その行為が持続する限り、その作動に身を委ねるようにしてエクリチュールを紡いでゆきます。つまり、身を沈めるように現場に内在し、徹底してそこに生じる出来事から譲歩しないのです。
 結果それは、健常者が押しつける正常な所作でも、単なる不随意な蠕動でもなく、新たに固有の動きを生みだし、紙上に留めることになります。
 例えば、便座ひとつとっても、健常者向けに調えられてしまっている日常は、脳性まひの身体にとって途轍もない難問として立ちはだかります。そこで、その形状や広さに応じて、健常者とは異なる応接が要請されるわけです。あるいは、医師である著者は、採血の技術を、口を利用し、補助者を立てて、いわゆる手本とはまったく別様に組み立て直して習得してしまいます。

 内在すること。世界と脳性まひが触れ合い、関係を切り結ぶその出来事に繰り返し立ち会うこと。

 「あなたを道連れに転倒したい」。著者は冒頭そう訴えていました。
 「なぜ私の体は転倒しやすいのだろうか。そしてなぜ、転倒しただけで二次元の世界に落ち込んでしまうのだろうか」。
 この切実な問いを前に、安易に「脳性まひだから」とか「障害だから」などと外在的に説明したところで、何も答えたことにはなりません。
 彼と世界のあいだに紡がれるエクリチュールにただひたすら付き添い、固有の動きを新たにともに生みだすこと。これ以外に回答はありえません。
 本書はまさにこれをパフォームします。かつ、それどころか、読むことそのものがパフォームである限り、読者をパフォーマーに仕立て、身体および経験の更新を余儀なくさせるのです。

 ちなみに、経歴を拝見すると、熊谷さん平倉さんともに1977年のお生まれです。
 じつはボクも同い年。同世代にこういう刺戟的な才能がいて下さると本当に勇気がわきます。ぼくもがんばろっと。

新國誠一没後30年

  • 2007.08.30 Thursday
  • 15:30
つい一昨日、東京まで足を伸ばしてきました。
久しぶりの遠出でコーフンしてしまい、無闇に走りまくったせいか、帰ってくるなりぐったり。何しろバスで日帰りだったもので。
主目的は、『新國誠一&ASA』展です。
新國は戦後、活字の組み合わせで視覚に訴える詩を制作し、日本に留まらず、ブラジルやフランスの詩人とも交流し、海外でも活躍しました。
例えば処女詩集『0音』所収の「子どもの城」では、サイズの異なる活字が紙面上に、向きや勾配もさまざまに星のように鏤められています。対応する映像や連辞の構造を一旦漂白し、活字はその形象が喚起する純粋な観念だけを明滅させるのです。そして見る度ごとに特異な星座を切り結ぶことになります。
彼の出身が仙台だという点で、以前から気にはなっていたものの、不勉強なため詳しく存じ上げなかったのですが、そのお陰で(?)展示されている資料はどれも興味深いものばかりでした。どうやら仙台には30代後半まで在住していたらしく、地元文芸誌の同人でもあったようです。この辺はいずれ時間ができたら調べよう。。。
あと藝大美術館の『金刀比羅宮 書院の美』展で、岸岱という絵師を初めて知り、吃驚しました。襖絵というか彼の絵に囲まれて立ち上がる空間(「水辺柳樹白鷺図」)が凄いのです。
ひときわ目を惹くのは、白鷺の舞い降り羽を休めるさまです。これは四方の壁にわたり連続活写され、大胆に対角線を横切るその動勢は、視線をスピーディに誘導します。
ところが他方、金地に緑で浮き立つようにあしらわれた柳が、桟や柱を跨いで、部屋全体に張り出すかのように描かれています。包み込むかのようなその広がりに、つい視線は拡散してしまいそうになります。
そしてこれらすべての描写が極めて明晰に瑞々しく施されているのです。
速度の異なる二つの時間は、互いに対照し合いながら空間に厚みを齎しているようです。観者が一方の時間を追いかけると他方が背景に退き、見えている現在とは別の時間を告げ知らせてくれるのです。

帰りがけに神保町にも立ち寄り、八木書店を覗いてみました。
でもお目当てのものが店頭になく、意気消沈。
慰みがてら、いくつか古本屋を流すものの時間がなく、あえなく収穫物は文庫本一冊のみ。
『世紀末プロ野球』草野進、角川文庫、1986
もはや今は昔、著者は女性野球評論家として、鮮やかに(?)世間を欺いた、元東大総長の蓮実重彦氏です。
車中、彼(/女)独特のアフォリズムが可笑しくって、しばし疲労を忘れることができたのでした。以下抜粋。
「爽快なエラーはプロ野球に不可欠の積極的なプレーである」。
「二番打者を義務感や原罪意識の暗さから解放しうるイデオロギーが必要だ」。
「権利としての走塁を阻止する送球の殺意が試合を面白くする」。
等々。。。

仙台写真月間2007

  • 2007.08.25 Saturday
  • 15:38
お天気のよい日は、散歩がてらに立ち寄って下さるお客さまがよくお見えになります。
メディアテークを始め、小さな雑貨屋さんやギャラリーが点在していて、ブラブラするのに丁度よいエリアなのかもしれません。

じつはボクも先日の休暇、ビラ撒きを口実に散歩、近所の「ギャラリー宙」を覗いてきました。
大宮瞳子さんの写真展が開かれていました。
どの写真もごくありふれた光景を、淡い色調で包み込んでいます。
遠景か近景か、あるいは被写体自身の存在感すら、この際あまり重要ではないようです。
むしろ写真全体を覆う色調、とりわけ写しとられた取り留めのない日常と釣り合う、はかない調子。
つまりここには撮る=見るべきものは何もなく、かえってその空虚に誘われて、淡い調子の色が情緒として吹き込んでいるかのようです。

さて、この写真展は、これから2ヶ月に渡り開催される「仙台写真月間2007」の一環で、1週間ごとに計8人の方々が展示なさるようです。
なるべくボクも見にゆきたいと思います。

最後に古本屋らしく、本の紹介をします。

『不可視性としての写真 ジョームズ・ウェリング』清水穣、ワコウ・ワークス・オブ・アート、1995、弊店古書価¥3000

いまや美術や音楽、とりわけ写真批評で定評のある著者ですが、これは彼のデヴュー作で、第一回重森弘淹写真評論賞を受賞しています。
とても薄く小さな本で、その後の仕事に繋がるエッセンスが高純度で結晶しています。本当に美しい小品です。
写真を、写す主体(記憶、表現など)と写される被写体(現実、存在など)から同時に解放し、むしろ見ることそのものを可能にする条件として剔出すること。
たとえばベンヤミンを再解釈しながらこう言明しています。
「ベンヤミンが発見したものは、写真を撮られたときには意識されていなかったが、写真を見ている今は意識できるような潜在意識の領域ではなく、意識可能なものの絶対的外部としての潜在的な質であり、それをこそ彼は視覚的無意識と名付けた」。
そして、このモチーフはその後、ベッヒャー・シューレやティルマンス、あるいは森山大道など論じるおりにも(『白と黒で』2004、『写真と日々』2006)一貫して現れ、そのつど作家固有の条件=質を特定してゆくことになります。

しかしこの本が長らく手に入りにくい状態というのは、非常に残念なことです。
刊行当初こそ売れにくい本だったかもしれませんが、今や実績のある著者です。
どこかで復刻しないものかしら。。。

寿司とタモリ

  • 2007.08.03 Friday
  • 00:03
営業中、先日の記事を読み返していたら、不意にタモリの「寿司将棋」を思い出し、笑いが込み上げて困ってしまいました。
それはタモリと小松政夫が、注文したネタをずらっと並べ、神妙な面持ちで指してゆく、という遊びです(職人さんに怒られそうな悪ふざけだな)。
無論ルールなんてあるわけもなく、例によってほとんどノリだけで勝負は進行します。
しかも解説役の女の子までいて、「2六タコ」とか読み上げ、あげく奥では打ち筋の批評まで加えられる凝りよう。あるいは、相手の駒を食う局面では、ホントに口に含んで食べちゃったり。

近ごろはめっきり落ち着かれたタモリさんですが(辛うじて「タモリ倶楽部」にその残響が忍ばれますが)、ボクの幼い時分にはこんな即興パフォーマンスばかりなさっていました。四カ国語マージャン然り。ハナモゲラ語然り。。。
その往時の至芸を、自己解説も交えながら味わえる本に、こんなものがあります。松岡正剛との対談です。

『愛の傾向と対策』タモリ+松岡正剛、工作舎、1980、古書価¥3000

一つひとつの芸は云うに及ばず、その合間に洩らされる、彼の率直な思いがなかなかよいのです。ちょっと長くなるけど引用します。

「タモリーー純粋な意識というのあるかどうかは知らないけれど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを『不思議』と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね。そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた」。

知覚したものをダイレクトに言い表そうとしても、「コトバ」は常に既に現実からは立ち遅れてしまう。
そこでタモリさんは、安易に沈黙してしまうのではなく、逆に「コトバ」から始めます。
「コトバ」を「崩す」ことで、そこに張り付いた「意識」を無意味化し、そしてダイレクトに笑いそのもの、つまり現実に転化してしまうというわけです。
現実を認識するために「コトバ」を利用するのではなく、「コトバ」自体を現実の笑いにひっくり返してしまうこと。

別にボクはお笑いに進む気は毛頭なかったけれど、タモリさんのこの言葉には何故か励まされたものでした(ヘンかしら?)。

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