『マゼラン・マガジン』第2号出来!(でも後半は『たまこラブストーリー』礼讃)+ 長い追記 2014.6.4

  • 2014.05.25 Sunday
  • 12:44
 本題前にお知らせです。

 今年も、Book! Book! Sendaiの6月が迫って参りました。メインの一箱古本市をはじめ、イベントが目白押しです。弊店が参加させて頂くものには、くだんの古本市ほか、図録をテーマにした古本販売があります。どんな本が並べられるかな。ご期待くださいませー。
 それから、15日には、ご近所のメディアテークを会場に、トークや舞台も催されます。こちらもお見逃しなく!
店頭にてチラシを配布してますので、どうぞ〜。

2014.6.24-7.3
 「図録展」
 会場:Gallery TURNAROUND(仙台市青葉区大手町6-22)
 時間:11:00-20:00(日のみ-18:00/月曜休廊)

6.28
 「Sendai Book Market」
 会場:サンモール一番町商店街
 時間:11:00-16:00

※ スケジュールの委細は公式ホームページをご覧下さい。


 もう半月前のことで恐縮ですが、『河北新報 夕刊』(5月14日付)で弊店を紹介して頂きました。

 順を追って、町を案内する連載記事「までぇに 街いま」。春日町の番だったのです。担当して下さった記者さんに多謝!
ウェブ上でも記事が公開されているようです。よかったらこちらから。

 閑話休題。
 フリーペーパーの2号めがようやく出来ましたー。前号からちょうど丸一年、無計画ながら思いがけず切りよい完成です。
体裁は変わらず、A4コピー用紙を四折。そこに、まんがをあしらっています。ヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』から着想したエスキースです。
 あと、おまけもあります。といっても、既出のエッセイですが。。去年『河北新報 夕刊』に掲載して頂いたものから4本を選んでみました。


 まんがは、例によって読書をテーマにしています。結果、今回はひたすら落下する羽目になりました。コマばかりか、カメラアイや花びら、雨、あげくは、メインキャラクターが眠り/夢に落ちます。たぶん、ウルフ自身が「書くことは昏睡に陥ることだ」みたいな発言をしていたのが、どこか頭の片隅に残響していたのかもしれません。読むこともまた、私の意識の底を踏み抜くことなくしては済ませられない。

 ところで、最後のコマは、いつごろか就学する前後から折に触れて去来するヴィジョンを落とし込んでみました。吹きつける風がページを捲り、活字が折り重なって混線する。「わたし」をさしおいて、世界が勝手におのれを読解し続ける、という。そして、それが加速するあまり、あらゆる意味が振り落とされ、ことばがもの同然になってしまう。私に為しうることは、そこに身を委ねることだけ、みたいな。

 それから、今回は、アニメの影響が露骨に窺えて、ちょっと恥ずかしい。。まず舞台の東屋が新海誠の『言の葉の庭』(2013)まんまですし、風に吹かれる髪は山田尚子の『けいおん!』(2009-2011)です。昨年の暮れから視聴し始め、当初はこんなに感化されるとは思いもよらず、我ながら動揺というか、驚いています。
 とりわけ、おなじ山田監督の『たまこ』シリーズは、決定的です。テレビ放映された『 たまこまーけっと』(2013)のクオリティもさることながら、上映中の『たまこラブストーリー』(2014)の豊かさといったら!もう脱帽でした。ワンショットの密度がハンパなく(りんご、風船、花、天体などの小道具、落下、上昇、直進、周回などの運動、そのほか色や音など盛り沢山の要素や系を画面上に重ねては動かす)、また、それを切り上げるタイミングの小気味よいこと(余計な情緒を残さない。むしろ澱みを払拭し、カットを開放する)。それに、ロケーションの設定も的確で唸らされたのでした(外部へ開かれる河原と京都駅が、対になる決定的なふたつの出来事、すなわち告白と返答の起こるトポスとして、作中1/3の位置と最後に配され、鮮やかなコントラストをなす。河原では水平な飛び石を跳ねるのに対し、駅では階段を垂直に跳ね上がるとか)。あと、主人公を始めキャラクターの変化、成長を、通りのよい説明で間に合わせたりするのでなく、本当に丁寧な演出の積み重ねによって厚みを与えながら説得力を持たせる手際なんて(映画だけでも成立していますが、テレビ版からのちょっとした遷移もとても納得ゆくものに仕上げられている)、作り手の良心につくづく痛み入ってしまいます。

 そして、いっそう感動させられたのは、監督のこれまでの作歴から今作が導かれるにたる必然性です。そもそも、デヴュー作にあたる『けいおん!』では、女子高生だけからなる、緩くも細やかな日常が描かれていました。異性はもとより他者を完全に括弧に入れたうえで仮構された実験的な温室です。その安定性は、致命的な出来事を徹底的に回避する代わりに、ちょっとした仕種や空気感を、圧倒的な精度で表現しうる可能性を開いていたのでした。

 それが『たまこまーけっと』では、安定の起源、日常の裂け目を露呈することになります。変わらぬ日常の下に、それを支える潜在的な基層が見いだされるのです。母の死です。女子高生である主人公(たまこ)は、小五の時分に母(ひなこ)を亡くしており、以来家業の餅屋を手伝いながら妹(あんこ)の面倒をみます。自ら母の位置を占めることで、母を身近に感じ、その死を乗り越える選択がなされたわけです。そして、店が所在する商店街(うさぎ山)もまた、まさに母のように彼女を見守り、世話を焼きます。つまり、母の死を引き金として、主人公=母=商店街という同一化のブロックが、主人公が死守すべき日常のファンタスムを構成するのです。だからそれと引き換えに、この同一化を脅かしかねないものごと、例えば、思春期にありがちな多感さを伴う経験は、悉く反故にされるほかありません。母を担おうとする主人公にとってそれは邪魔なだけです。とりわけ、「性」に関わる問題は無意識の検閲によってあらゆるかたちをとってスルーされてしまう。幼なじみ(もち蔵)の恋心や同性(みどり)から寄せられる恋慕、それから娘の婚約話に動揺する父(豆大)のことばなど。1クール12話を通して、主人公は一貫して受け止め損ね続けます。これは、部活のバトンや、幼なじみとの糸電話のやりとり、あるいはトリックスターであるしゃべる鳥(デラ・モチマッヅィ)の扱い(じつは本編中、主人公がまともに彼をキャッチした試しがない。大抵主人公のあたまに止まる。というのも、南方から飛来した彼は、王子の花嫁探しの道中であり、性の象徴だからだ)などあらゆる局面で象徴的に反復されます。主人公の天然キャラは、フロイトよろしく自我の防衛機制によるものなのです。しかし、この天然(鈍感)さこそが、周囲の世話焼きを招き寄せては彼らを翻弄し、物語を活気づけることになっていました。
 ともあれ『けいおん!』同様、日常の安定性のうえに成り立つ繊細な表現も健在ながら、『たまこまーけっと』では、そこへさらに母の死という基層が深みを差すことで、表現の幅が広げられていたのでした。

 この道ゆきを踏まえての『たまこラブストーリー』です。前作で繰り返し触れられながらも、ついに抑圧を破られなかった「性」が真っ正面から取り組まれます。ついては、これは母の死とあらためて向き合うことを意味します。『けいおん!』以来描かれてきた、日常なるものが根底から問い直されるわけです。
 上映開始から1/3の時点で、幼なじみから、もはや無意識の検閲が失効するほどにストレートな告白がなされます。動揺のあまり、主人公はその場を逃げ出してしまう。そして、残り2/3にわたって、その克服に臨みます。度を越した戸惑いは、彼女の執心してきた日常がいよいよ危機を迎え、それも前作のような外圧ではなく、内輪、最も身近な幼なじみに由来するのだから尚更です。このあいだ実に丁寧な演出が張り巡らされるのですが、日常の基層、すなわち母の死に肉薄する、決定的なエピソード二つに絞って言及しておきます。まず、まだ母親が存命だったころ、主人公は一時的に餅が嫌いになります。というのも、くだんの幼なじみが餅をネタにしつこく彼女をからかうからです。ところが、ほどなくしてまた餅が好きになる。母を亡くして気を塞いでいた折もおり、餅を突き出して、腹話術さながら主人公を慰める人があったからです。当初それは父親だと思い込んでいました。ところが、作中後半、不意にそれが当の幼なじみだったことを思い出す(このシークェンスは特にぐっときます。。高校の教室に着席する主人公を正面から押さえたカットに上手からぬっと園児服に袖を通した幼い腕が突き出される。と思うや、90度パンしてフォーカスが手前の餅から奥へ移る。すると、既出のカットでは暈されていた顔(しかもその際は父の声がオフで被せられていた)がはっきり映しだされ、幼なじみが「ひなこちゃんに笑われるよ」と亡くなった母親の名前とともに語りかける。この、現実の空間に、記憶の腕がぬっと突き出るあのカンジ!←2014.5.28追記 きのう見直してきたら、完全に記憶違いでした!二つのシークェンスを勝手にリミックスしてました。お恥ずかしい。。しかもカメラワークもパンではなく、カットを割ってたし。とほほ。記憶って怖い。。)。つまり、主人公は、自分の記憶すら受け止め損ねていた。母の死とともに異性の記憶を見事に抑圧していたのです。それが、告白を契機として、あらためて受け止め直され、記憶が書き換えられる(この出来事は以後、バトンや糸電話をちゃんとキャッチする雛形になっています)。抑圧が明るみにされるや、そのうえに構成されていた主人公=母=商店街という同一化のファンタスムも当然揺らがざるをえません。「性」の抑圧の上に建てられていた日常が、「性」の再解釈によって建て替えられる余地が生じるのです。日常は、固着して頑なに守り通すべき城ではなく、つどに応じて更新される柔軟な仮住まいとして再定位されます(かんな風)。
 そして、次ぎのエピソードに至り、先に揺らがされた同一化のファンタスムは、完全に組み替えられることになります。精神分析でいう徹底操作が遂行されるのです。
 告白されてから、主人公は、あるカセットテープをそぞろに聞き返すことになります。高校時代バンドを組んでいた父親が、当時、告白代わりに母親へ送った曲が収録されています。作品も終盤、妹と談話するうち、例によって掛けていたテープが巻き上がり、自動的に裏面が再生されます。すると、それまで気づきもしなかった曲が流れ出す。母親の前口上も添えられたそれは、「告白された時は驚いて逃げてしまい、ごめんなさい」と始まる、彼女からの返歌だったのです。主人公は知らず知らずのうちに母親の歩んだ道を辿り直していたわけです。告白されて逃げ出し、遅れて答える(しかも、媒介を挟む点まで踏襲される。両親はカセットテープと歌だったのが、主人公たちは糸電話を介して繋がる。ちなみに、幼なじみがまわすデジカメや、母親の記憶すなわち人称性を欠いた基層の表象を写したフィルムのカット、あるいはテレビ版のしゃべる鳥がもつ映写能力など、媒介のテーマも大きな連鎖を形づくっている)。オイディプス王ではありませんが、運命の符合を前にした主人公は、それまで自ら母の位置を代補しようと遮二無二やってきたものの、ここにきて初めて受け身に立ち、運命を引き受ける強さを獲得します。当て込まれた日常を死守するのではなく、降りかかる運命を受け容れることで日常をつくり直してゆく。主人公=母=商店街のファンタスムは、安易に放棄されるのでなく、意味を致命的にひっくり返すことで新たな日常として受け止め直されるわけです。この直後に、しっかり本番でバトンをキャッチし、幼なじみへの返答を成功させます(それも、片方だけ手渡すべき糸電話を、ひとまず間違えて両方投げ渡してしまい、それをまた片方だけ投げ返させてキャッチするという、文脈上深く頷かざるをえない憎い演出がなさていました)。

 『けいおん!』で、所与として描かれることから始まった日常なるものの探究は、『たまこまーけっと』でその基層を炙り出し、『たまこラブストーリー』に至って意味を根こそぎ刷新するまでに達します。この不可逆ゆえに真摯な足取りには心底畏敬の念を禁じえません。本当に本当に、すごい。。

 仙台でもまだ上映してるようです。未見の方はぜひ。長町のmovixです!テレビ版は広瀬通りのTSUTAYA他でも借りられます。。ってフリーペーパーを紹介してたつもりが、勢い余って山田監督礼讃になってしまった。。もうフリーペーパーは二の次で構わないので、少しでも興味の湧いた方は『たまこ』シリーズ見て下さーい!

2014.6.4 追記

 上の記事、一貫性を追うあまり「母の死」を強調し過ぎたかも。。ちょっとだけ補足。
 まず、「母の死」はあくまで日常に潜在する基層であり、原理的に顕在化しようのないものです(あるいは、顕在化してしまえば、もはや基層の役割を担えない)。だから、あからさまな描写は省かれるほかなく、実際、仄めかされるに留まっています。かといって、描かないことで逆に虚焦点として一切をそこへ収斂させる、なんて演出にも傾かない。むしろ、終始、内省や悲痛さを周到に避け、余計な重みがきれいに払拭されています。「母の死」は、作品を縦に貫く基層ではあるものの、必ずしも絶対ではないのです。じつは、もうひとつの日常が、作品を横から織り上げています。南方からの闖入者や級友との交流です。彼らは、主人公=母=商店街のブロックからは切れた他者でありながら、なおかつすぐそばに住まう居候であり隣人です(ただし、みどりともち蔵だけは両義的。彼らは「母の死」に立ち合っているうえ、本人もしくは身内が商店街の住人。しかしだからこそ、たまこにとって特権的な位置を占めうる)。
 そして、これら異質なふたつの日常が触発し合うことによって、活劇が生みだされる(例えばデラとのドタバタ)。本作の魅力のひとつはおそらく、この輻輳する日常を極めて洗練されたかたちで示してくれる演出の手並みにこそ由来します。この点、とてもおもしろい読解をなさっているブログ記事に行き当たりました。「日常生活の暗号解読術:『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ」(『The Day After Yesterday』)です。以下、これを要約しながら拙文の文脈へ敷衍しておきます。他者を交えたやりとりのうちに、彼らの思惑を越えでるコミュニケーション、つまり活劇が生じる瞬間を捉えています。

 『たまこまーけっと』2話。放課後、英語の課題に取り組むたまこが構文を呟く。「not only A,but also B…」。そこへみどりが助け舟をだす。「AだけでなくBも。だから、『彼らは言葉だけでなく心もまた大切に』」。これは、同性のたまこへ思いを寄せる彼女が、その胸の内を例文に仮託した吐露でもある。むろん天然の(鈍感な)たまこは気づかない。一方、たまこの髪を弄っていたかんなが不意に「あ、枝毛(エダゲ)」と洩らす。「Aだけ(エーダケ)…」という訳文から導かれた、無意識による駄洒落だ。しかしこれがさらに、反射的な振るまいをたまこから引き出すことになる。「みどりちゃん、髪きれいだね」と、みどりの髪に手を伸ばすのだ。不意をつかれたみどりは、なされるがまま、無防備にも潤んだような瞳を湛えてしまう。

 「たまことみどりの意識的なダイアローグに、かんなの無意識が作用した結果、予想を越えたコミュニケーションの連鎖(たまこがみどりの髪に触れる)が引き起こされ、抑圧されていたみどりの恋心が露わになってしまったのだ。翻訳不可能な彼女の恋心が、無意識によって鮮やかに翻訳されているのである」(「日常生活の暗号解読術:『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ」(『The Day After Yesterday』)より)

 くだんのブログでも指摘なさっているとおり、かりに、たまことみどりの二人きりだとしたら、一連のやりとりは起こりようがなかったはずです。というのも、先述してきたとおり本文脈上だと、母を担うたまこにとって、性はスルーすべき問題です。しかも、みどりもまた彼女の習癖を知っているが故に余計な発展を望むべくもないからです。ところが、かんなばかりは、そうした事情を共有しておらず、関知せずに済む存在なのです。そのため、彼女だけが何食わぬ顔で、あらぬパスをさし出す余地を開きうる。いきおき、たまこの天然が乗っかり、ついにはみどりの情動を漏出させてしまったというわけです。ともあれここに、「母の死」に依拠する日常(たまこ=みどり)とそれとは無縁な日常(たまこ=かんな)の、両者が繰り広げるショートサーキットを見てとることができます。
それにつけても、先のシャープな読解もさることながら、こんなシナリオなり演出をひねり出す京アニチームって。。アニメをつくる集団作業って、作中のかんなたち同様、無意識の掛け合いが強く反映する気がします。演出さん(この回は三好一郎さん)はもとより、数多くのスタッフが実際に手を入れるわけだし。興味深いです。

 最後は蛇足です。
 次ぎのシークエンスでも、同じく情動の溢れるさまが、一般的なドラマ(現前する意識)と特殊な欲望(無意識)の交錯にさりげなく描き出されています。ただしこんどは、ことばでなくものが媒介に充てられます。

 『たまこまーけっと』10話のクライマックス。バトントワリングの振り付けを請け負うも、何も思い浮かばず悶々と過ごすみどり。やがて彼女は、持ち前の責任感とプライドから、独り窮してしまい、学校を休んでしまう。そこへ、事情を知らないたまこらが、風邪を見舞うつもりで訪れる。程なくして、かんなが紙くずの山を発見するや、咄嗟にみどりが奪いとる。ままならない振り付け案が書きつけてあるからだ。やがて訥々と打ち明けるに及んで、みどりの涙が止まらなくなり、鼻水までたらしてしまう。堪らずたまこが抱きつくと、史織が慌てて鼻紙を探しだし、それを受けてかんなが鼻をかんでやる。

 みどりの自意識が、みなのおかげで一皮むけるという、ほろ苦くも誰しも身に覚えのあるようなドラマです。ところが、じつは涙のきっかけだけは、この自然な筋から逸れたところに見いだされます。潤んだ瞳の先、切り返して示されるのは、くまのぬいぐるみです。みどりにとって、これはたまこの代わりであり(「たまこがいなくなるのを喩えるなら、くまをとりあげられるようなもの」という発言が11話にある)、強がりな彼女にとって気を許せる貴重(ほとんど唯一)な存在です。在宅中は肌身離さず抱えています。くまを前にするや、常にみどりは警戒を解いてしまうのです。直前のシークェンスでも、たまこから電話越しに進捗を訊ねられた際、やはりくまに射すくめられ、狼狽してうまく誤摩化せなかったのでした。
 では、ぬいぐるみを手配したのはだれでしょうか?かんなをおいて他にいません(またしても!)。部屋へあがった当初から、かんなの膝の上に抱えられ、カットを割るたび彼女のそばで位置と姿勢を細かく変えていました。理由は特定できないものの、彼女の性格から察するに、こうした小さな悪戯をいかにも仕込みそうではあります。ひょっとしたら、取り乱すみどりを安心させようと気を配ったのかもしれません。他方、少なくとも、みどりにとっては出し抜けだったに違いありません。ふだん触れるかそばにあるはずのものが、与り知らぬ間に、向こうから自分を見つめていたわけですから。ただでさえ、無防備を強いられるのに、そのうえ虚をつかれたとなれば、みどりが堪えきれなかったのももっともです。


 涙がこぼれる直前のくまは、史織の方を向いている。しかし、彼女と視線が合うことはついぞない。


 あふれる涙。この視線の先が切り返しで次ぎのカットに示される。


 かんなの仕業か、みどりと鉢合わせしてしまうくまの視線。


 たまこたちの畳みかけるような慰めがひと段落すると、また元どおり向き直る。デラちゃんの舞いを見守るくま。

 かんなの出来心が、くまを介して思いもよらず、必死に堪えるみどりの瞳を決壊させます。このとき救われるのは、必ずしも責任やプライドからだけではありません。くまを巡る欲望のエコノミーそのものが同時に購われているのです。というのも、ぬいぐるみに泣かされたみどりを見て、それを埋め合わせるかのようにたまこが抱きつきます。みどりの涙を蝶番に、くまとたまこの等価交換(みどりのファンタスム)が象徴的に実現されるわけです。そこへ遅れて、かんなが己の気まぐれを償うかのように鼻をかんでやる(こうした経緯がなければ、史織が適任だったはずなのだ。何しろかんなよりみどりの間近にいて、しかも鼻紙を確保していたのは彼女なのだから。しかし、彼女はくまを巡る欲望のエコノミーからは端から切れている。くまに触れさえしない。それゆえ権利がないのだ)。いうまでもなく、これは誰にも現前することのない、みどりの意識下に限られたファンタスムです。実際には、一般的な善意の連鎖が描かれているに過ぎません。しかし、このシークェンスにただならぬ厚みをもたらしているのは、紛れもなく一般的なドラマ(意識)と特殊な欲望(無意識)の交錯であり、それを支える要こそ、欲望の原因たるくま=たまこなのです。
 (念のため、補足の補足。これは何も、くま=たまこがみどりにとって、ラカンのいう対象aなのだ、とかいう分析が目的なのでなく、みどりを描く演出(この回は小川太一さん)の妙を指摘したかったまでです。ちなみに、上のシークェンスは、みどりがかつて愛用していたであろう、おもちゃの仕舞われた段ボール箱が、箪笥のうえに煽りで抜かれて終わります。またこの前には、振り付けに悩み焦るみどりが、意識するともなく、祖父の営むおもちゃ屋さんに足が向くシーンも描かれていました。つまり、ふだん姉御肌の彼女にとって、おもちゃ=幼少期との紐帯には、誰にも明かせない(おそらく本人ですら)秘密があり、上のシークェンスは、それが一般的なドラマと交錯することで非常に効果的な演出に結実しているわけです。たぶん、秘密とは、小四で転校してきたみどりが、小五になって母を失うたまこと培ってきた因縁なのは間違いありません。ただし、それは賢明にも作品の背景(日常の基層)へ留めおかれています)

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