第1回 志賀理江子 試論 (分載4)

  • 2012.03.17 Saturday
  • 16:46
 今期の写真専門誌 aperture " に、志賀さんの写真が掲載されています。彼女は、大津波からまもなく、避難所で暮らすかたわら、散乱した住民たちの写真を発掘、洗浄する活動に着手します。そのあいだ、やまむにやまれずシャッターが幾度となく切られ、そうして残された痕跡がこれらの記録です(レクチャーの記録でも触れられていますが、作品をつくる構えは皆無だったそうです)。

 " aperture ", 206, aperture foundation, spring,2012

 興味深いのは、うち上げられた家畜や倒壊した家屋など、惨状を直截伝えるものばかりでなく、発掘された写真が数多く被写体になっていることです。土に埋もれたもの、砂まみれのもの、それらが幾重にも圧着したあげく、折れ曲がったもの。なかには、津波が押し寄せる北釜を写した新聞記事まで(避難所や仮設住宅では、どの世帯のスペースにも、なぜかこれが切りぬかれて貼り出してあったそうです)。
 無論、雑誌の性格上なんらかの意図がはたらいているのかもしれません。しかし、そうはいっても、こうした私的な写真への即物的なまなざしは、まさに志賀さんのそれ以外にありません。レクチャーの中で、彼女は、北釜で生活することをイメージのなかに住むと表現したことがあります。あるいは、イメージに住まわれるとも言い換えられるかもしれません。イメージは、対象として捕獲されるものではなく、はるかに生々しくわたり合う環境として、彼女を囲繞し、巻き込んでいるのです。

 ところで、併載されている竹内万里子さんの文章も必見です。志賀さんの、地震後の経緯が要領よくまとめられています。個人的にとりわけ印象に残る一節を引いておきます。

" If there had been no natural disaster, no tsunami, Shiga would not have had the oppotunity to touch or even  see these photographs<span style="font-size:x-small;">〔引用者注 津波で散乱した住民たちの写真〕</span>. She interprets them as a warning to her, as a photographer, against arrogance."
 Lieko Shiga, Mariko Takeuchi,"Out of a crevasse: The days after the tsunami",ibid.,pp22-29

 最後におまけです。被災地の志賀さんを訪ねた、アヴィーク・センさんによる記事が『ART iT』のホームページに掲載されています。あわせてどうぞ。
写真は抗う:志賀理江子との一日

 それでは「第1回 志賀理江子試論」のつづき(分載4)です。第1回はこれでおしまいになります。第2回もいずれ遠くないうちに。。
 前回までの記事はそれぞれ、分載1分載2分載3 をご覧下さい。

 ちなみに、まだ当分先の話ですが、来年、志賀さんの写真を弊店で展示して頂く予定になっています。それまでの助走として、ときどきこうした紹介記事を掲載してゆこうと思います。

***
(承前)
 さて、法の執行者になるという選択は、間違いなく倫理的行為だ。不安をかい潜る蛮勇と呼んでもよい。ところが、法を執行すること自体は、はたして倫理に適う振るまいだろうか。かえって、それは不安を封印し、徹底的に回避する悖徳ではあるまいか。なにしろ、いったんその立場を確保さえすれば、もはや不安を顧みる必要はなくなるのだ。あとはひたすら、無限に自己証明を繰り返す道しか残されていない。それゆえなのか、次作『CANARY』になると、執行者の立場はかなぐり捨てられる。無論、制作環境の激変が大きな理由だろうが。そう、『CANARY』ではもはや一方的に写真を弄ぶ意味が失効している。馴染みのない土地やその住人、つまり他者との応接が問いを形づくる。もし『Lily』がサディズム的と形容できるなら、『CANARY』はマゾヒズム的戦略を選択する。超自我を締め出し、他者と交わす秘密の契約のうちに法を委ねるのだ(★6)

 最後にもう一点だけ触れて、いったん本稿を締め括りたいと思う。それは「Lily」におけるユーモアだ。臀部を突き出したまま、なぜか大量のトイレットペーパーに押しつぶされる女。無邪気にフラフープを興じる少女。そして、タイトルにもなっている少女の、太々しい態度とでっぷりした腹部。ほかの写真が深刻さを醸すなか、一見これらのモチーフは相容れないように思われるかもしれない。しかし、こうして周囲の深刻さに距離をさし挟むのは、紛れもなく超自我の一面なのだ。自我に対する優位の現れのひとつとして、事態を滑稽にひっくり返してみせてくれているわけだ。ただ、それよりもあえて指摘しておきたいのは、これ以前には一枚たりともユーモアが認められなかった点だ。つまり『CANARY』へ跳躍せんとするまさにその瞬間に初めて、ユーモアが降って湧いている。それまで、深刻さ一辺倒だった超自我に何か異変が生じているのだ。ひょっとしたらこれもまた、来るべき『CANARY』ヘの徴候なのかもしれない(★7)。(第1回了)

【注】
★6 クラフト=エビングが命名して以来、サディズムとマゾヒズムは相補的に対称しうる概念として受容されてきた。ところが、ドゥルーズによれば両者の相容れなさは決定的だ。そもそも、自我と超自我ヘ託される機能や目的がまるで異なる。サディストは超自我を純化するために自我を外へ放擲し、マゾヒストは自我の幻想に供するために超自我を骨抜きにする。前傾書では、彼らの異同を逐一丁寧に選り分けてくれている。ただし、去勢、あるいは父の名を否認する一点において、つまり、ラカンのいう疎外後の分離が失調するかぎりにおいてのみ両者は一致する。
★7 これはフロイト寄りの穏当な(?)解釈だが、ドゥルーズに従えば、さらにラディカルな結論が導きだせる。「ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである」。(前傾書、154頁)だとすれば、「Lily」シリーズにおけるユーモアとは、サディストを擬態するマゾヒストの仕業かもしれないのだ。超自我が、その暗い意志で写真集全体を覆うなか、一方でそれに従うふりをしながら、他方でユーモアによってそれを脱臼せしめること。つまり、写真集『Lily』は、おのれの一部である「Lily」シリーズをとおして、自己言及的に脱構築を図っている可能性が見えてくる。『CANARY』が生まれた理由を、環境の変化など外的要因だけで片づけるのは大きな間違いだろう。もしかすると、『Lily』においてすでに自己批判を経ていたからこそ、次の展開が実現したのかもしれない。

***
 志賀理江子公式ホームページ:Lieko Shiga 

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