第1回 志賀理江子 試論 (分載3)

  • 2012.03.14 Wednesday
  • 01:19
 さる日曜日の11日は、閉店してから火星の庭さんへ顔を出してきました。この日は、特別に延長して営業なさると伺っていたものだから、ちょっとご挨拶するつもりで。
 ところが、ほかにも10名弱ほどお客さまがテーブルを囲むなか、お酒やら粕汁やらおいしいお料理をご馳走になるうち、気づけば午前さま。毎度で(ちょうど一年まえの避難時も!)ほんとう恐縮ですが、感謝です。ありがとうございました!

 さて、本題に移るまえにもうひとつ。

 第6回の会場風景(せんだいメディアテーク(以下smt)のホームページより転載)

 この日曜日3月18日、いよいよ「志賀理江子レクチャー」が最終回を迎えます。
 昨年6月を皮切りに、以来計10回、写真と北釜をめぐって濃密な語りが実践されてきました。
 予定だと、最後は、北釜の人々を招いてその声に直接耳を傾けることになっています。実現すれば、間違いなく貴重な出来事になります。というのも、おそらく、志賀さんと住人の方々とのやりとりは、そのまま彼女が問う写真、イメージに直結しているはずだからです。彼らのあいだに、いかなる距離、角度、温度が、触発され、持続し、持ち越されるのか。固唾を呑んで見守る必要があります(悔しいことに、ぼくは行けないけど!)。
 なお、第8回までの記録は、smtの7階に仮説中のアトリエで、3月31日まで閲覧することが出来ます。

 志賀理江子レクチャー第十回(最終回)「北釜を招く 仮設住宅で一緒に生活している人達を招いての会話」
  日時:2012.3.18.13:00-1500
  場所:せんだいメディアテーク1Fオープンスクエア
  参加料:無料(申込不要)
  定員:30席程度


  全プログラム
   第1回 2011.6.12 イントロダクション 北釜へ
   第2回 7.24 コミュニティの中へ 宇宙人だった
   第3回 8.7 オーラルヒストリー 血肉の唄と言葉と身体
   第4回 9.25 触れない、触れられない 思い上がるなという警告の存在達
   第5回 10.23 写真は抗う 拾われた写真、この世の中の99.9パーセントの写真について
   第6回 11.6 イメージ1 過去・現在・未来から脱する空間への儀式(ゲスト 竹内万里子)
   第7回 12.18 イメージ2 強烈に明るい場、遠く冷たいまなざしにさらす
   第8回 2012.1.22 消えたか否か未ださめぬ 今回の震災について起った事の全て
   第9回 2.12 箱庭 写真と空間の関係、今回の展示について
   第10回 3.18 北釜を招く 仮設住宅で一緒に生活している人達を招いての会話

※ smtのホームページで、各回の簡単なレポートなどが確認できます。こちらからどうぞ。


 それでは「第1回 志賀理江子試論」のつづき(分載3)です。
 前回までの記事はそれぞれ、分載1分載2をご覧下さい。

***
(承前)
 『Lily』の感想として、怖さを訴える声をよく耳にする(★4)。たぶん、画面の不穏さに反応しているのだろう。しかし、それは作品の主題でもなければ目的でもない。あくまで法を現前させるための、かりそめの足がかりに過ぎない。かといって、そこに魅せられる謂れがないわけでもない。というのも、志賀じしん、法の執行者の立場にありながら、いくばくかは虐げられる対象にも同一化しているのだ。対象の歪みをリアルな証拠として痛感するには、かたやその身になる必要がある。そのためには、ただ一方的に傷つけるばかりでなく、写真のなかへ降りてゆかねばならない。マクロレンズによる接写はこの水準にこそ関わる。志賀が用いる技法は、倒錯型サディズム(★5)を構成する要素に従って、精確に配分されている。おのれが担う執行者としての超自我には、引き延ばしと加傷が充当され、外部に据えられた自我たる対象には、接写が割り振られる。

 ともあれ、画面の不穏さは、この際やはり問題ではない。問われるべきは、何としても法を現前させんと急き立てる、あの衝迫であり、そうせざるをえない理由だ。かりに法が撤廃されたなら、まなざしは何もかも見失い、途端に生理的な一機能へ頽れるほかないだろう。ひとみに映えるのは、ただ生に有用な明滅に限られる。見るべきものを見出すには、是が非でも法が要請されねばならない。法こそがまなざしを可能にするのだ。『Lily』で下した志賀の選択は、みずからその執行を担うことだった。この退っ引きならない決行は、無根拠にしかなされえない。なにしろ、当の準拠すべき法そのものの選択なのだから。何ものもあてに出来ないなか、それでもなお責任を負うべく踏み出すこと。この振るまいを措いて倫理と呼べる実践などありはしない。数ある選択肢から、ある法を選ぶのではない。そんな高みからの余裕など、志賀の写真には金輪際無縁だ。ある振るまいは、ただそう為されるというそれだけの事実によって、避けようもなく何らかの法を選びとってしまう。法は、望む望まざるに拘らず産み落とされてしまうのだ。自由の極みにおいて選択ならざる選択が遂行される。それにともない、畏れや不安を抱かずにいられるだろうか。この不安こそ志賀の賭金だ。法を現前させんとする衝迫は、いうまでもなく法の執行者に由来する。しかし、そもそもの発端は、法そのものを選びとるこの自由への不安をおいてほかにない。
 だとすれば、志賀の写真を見たといえるのは、同じく自由への不安におののきながら、手づからまなざしを組織しえた、ただその時のみに限られる。慣習どおり、惰性で目を通すだけでは何も見たことにならない。まして、好みに応じて気ままに愛でるなど論外だろう。暗中模索の不安を覚悟して、写真の闇を踏破するしか道はない。いよいよ断言しなければならない。やはり『Lily』は後ろから捲られるべきなのだ。加速する切迫感を味わうためばかりでなく、ささやかながら自由のためにこそ。(つづく)

【注】
★4 統計を取ったわけではないが、レクチャーの記録を読むと、本人の口からもその種の発言が確かめられる。
★5 「サディストは、みずからの超自我そのものであり、自我はその外部にしか見出されはしない。…放蕩者は、他人に課する苦痛をみずからも好んでこうむる。外部へと向けられた破壊の錯乱は、外部の犠牲者との同一視を伴っているのだ」。(『マゾッホとサド』ジル・ドゥルーズ 著、晶文社、1973、151-152頁)

***
志賀理江子公式ホームページ:Lieko Shiga 

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