『映画 聲の形』と『仙台写真月間 2016』について

  • 2016.10.02 Sunday
  • 23:24

 10月に入り、ようやく秋らしく落ち着きました。9月は梅雨みたいでしたからね。この時期あんなにじっとり蒸したのは初めて。亜熱帯化してるのかしら。

 移住してきて以来、街並も随分変わったけれど、気象も例外ではないのだなぁ。。

 

 「仙台写真月間2016」公式ホームページより転載

 

 「FLORA #06」

  会期:2016.9.20 - 9.25

  会場:SARP space A(宮城県仙台市青葉区錦町1-12-7門脇ビル1F)

 

 さて、会期はとうに過ぎてしまいましたが、今年も仙台写真月間が開かれてました。台風の影響で、全部は見られなかったものの、あれこれ面白かったです。

 とくに、小岩(勉)さん。方法上の禁欲を解いて、はっちゃけてました。すごくいい感じ。いつもなら、人が写っていても風景(の構造)を優先させる構図が定番です。ところが一転、バストショットの被写体が導入されるや、それを切り返すばかりか上下反転、はたまた唐突に後退させたり、さらには同じ場所ながら人気のない一枚をカラーに調整して幕切れを飾っていました(写真はすべて黒白で撮影、RAWデータで保存。つまりカラーは後づけ)。

 合間に風景や植物のカットを挟むとはいえ(いつもより逆光多め。なのに階調豊か)、ゴダールばりのジャンプカットです。小気味よいリズムもさることながら、目紛しく変転する被写体との距離感、これが描きだす空間の鮮やかさといったら!吃驚しました。リテラルな被写体は人なのだけれど、一連の写真を通して結像するのは特異な空間です。

 藤棚から落ちる影のもと、手前には背を向けた少女がボケて写りこみ、肩越しに広場が眩しく照っています。奥へ誘われるまなざしは次のリバースショットで不意に足もとをすくわれます。正面からピントを合わせた途端、天地がひっくり返るのです。咄嗟に認知しうるのは中央を占める表情ばかり(誰の顔かより、真っ先に表情が察知される。とりわけ、微笑みを押し殺すかのような口許は印象的だ。大頬骨筋と口角下制筋のせめぎ合い)。これを頼りに、立て直しを図りつつ次の写真へ。すると、同じ面持ちのまま少女は陽光さす広場へ退き直立しています。

 方向感覚を失調した挙げ句、表情(あくまで顔でなく)を媒介に写真たちが架橋されるせいか、撮影地が実際にどうあるかなんて現実感は失せてしまいます。代わって、広場じたいが表情を帯び、微笑みを押し殺しているかのような実在感を放ちだすのです。最後に現れるカラーは、人という起源をさし引いたのちもなお残る表情、その等価物と考えられます(若干オーバー気味にみえる微妙な色調は、せめぎあう二つの筋肉の震えそのものだ)。実体を消し去りながら、笑みだけを置き去りにするチェシャ猫のような。

 

 ところで、やっとアニメ『映画 聲の形』(山田尚子 監督、2016)を拝見できました。

 素晴らしい。。

 前作『たまこラブストーリー』2015)では、監督の作歴上ひとつ集大成を遂げてしまった感がありました(当時の感想)。爾来この一年、どう進展なさるのか勝手にやきもき過ごすはめに。。でも、杞憂は綺麗さっぱり吹っ切れました。やっぱり山田さんすごい。別格です。

 

 

 原作マンガ(『聲の形』全7巻、大今良時 著、講談社、2013 -14)では、学童期のいじめを端緒に、いくつものテーマやエピソードが輻輳し、全篇をとおして厚みある世界が構築されていました。それを、2時間強に収めるにあたり、随所に大胆な工夫が凝らされ、スマートでありながら、かえって深みを増す結果に仕上がっています。改変や圧縮、切断など加工の作法の逐一が原作への細やかな解釈を示唆し(まるで精神分析の技法みたいに)、原作の世界をより豊かに、かつ装い新たに開陳してくれます。

 

 いっとう感動させられたのは、植野(直花)が出しぬけに「ハカ」と誤った手話で毒づく、終盤のやりとりです。ヒロインの西宮(硝子)は、面食らいながらも笑って「バカ」とやはり手話で訂正してあげます。これは、原作にはないシーンで、不意をつかれてついほろっとしてしまいました。

 しいて近しい光景をあげれば、西宮の妹(結絃)に、植野がふざけてお子様ランチを勧める条り(第7巻)でしょうか。横から眺めていた西宮は笑いを堪えられず、いつになく感情を露にします。さりとて映画の方が、二人の交感をより踏み込んで描いているのは一目瞭然です。

 耳の聞こえない西宮は、かつていじめの被害者でした。主犯の一人が植野です。高校生になった今も、植野は西宮を疎み、「感情が伝わらない」と筆談を拒みすらします。

 そんな彼女が仇敵の言語をまねてみせます。内容は例によって憎まれ口ですが。そして、さらに驚嘆すべきは、西宮の多義的な応酬です。リテラルには手話の指南に過ぎない身振りに、「もう、バカだなぁ」という親しみを込めた含みが託されるのです。全篇を通し、西宮が軽口を叩くのはこれきりです。彼女にとって言葉は終始、質問や謝罪など実際の用途に限られていました。

 植野が、相手の言語を自分の流儀に転用するや、鏡面反射するかのように、西宮は相手の身振りをなぞって、自分の言語を他者のように扱います。植野に誘い込まれる形で、西宮は初めて自己を相対化し、言葉で遊べるようになるのです。

 作中ずっと西宮は、みなのお荷物だとおのれを苛み、挙げ句自殺を図るほど自縄自縛に陥ります。耳が聞こえず、意思疎通の不如意な自分をどうしても認められません。そんな彼女にとって、くだんのシーンは福音だったのではないかしら。ままならない伝達は、絶望を強いる以上に、相手との交感を促してもくれるのです。障害の価値は反転します。

 ところで、映画はもとより原作においても、植野こそが、西宮をその自責の念から解放しうるキーパーソンのはずでした。誰よりも西宮を見透かしていたのは彼女を措いていません。いじめた罪を人一倍悔いる、主人公の石田(将也)でさえ、洞察は叶わなかったのです。ところが、その可能性を原作はみすみす流産しています。植野と西宮は平行線を余儀なくされ、不完全燃焼のまま幕を閉じます。無論、本筋は石田視点の成長物語です。ゆえに、あえて省くのも一見識であるには違いありません。少女らの絡みは、あくまで傍流の挿話に過ぎないと。

 しかし、映画における改変は、まさに、原作に潜むこのありえたかもしれない行く末に光を当てています。劇中の西宮ばかりか植野という存在(作品世界における意味)をも救済するのです。監督と脚本家(吉田玲子)の面目躍如です。『けいおん!』(2009)以来のこのタッグ、本当に凄いなぁ。。

 ちなみに、絵の方は、合わせ鏡のようなやりとりに倣ってか、対面を模して、正面ピンの主観ショットが交互に切り返されます。しかも、絞りを開放して輪郭を浮き立たせ、彼女らだけの特別な関係を仄めかしていました。周りに屯する友人をみなフレームから締め出し、背後を無人にする果敢な周到さにも感心しきり。

 

 語りだすと切りがないので、以下思いつくままに。。

 

 落下と浸水(川、池、雨、涙)は、作中繰り返し登場するモチーフです。前者は、自ら超えでるにせよ、撥ねられるにせよ、社会からの逸脱を象徴します。世間の水平的なコミュニケーションに対する、個における垂直の超越性。あるいは後者なら、水を膜とした媒介性を演出します。これらが、他のモチーフやカットと様々に重ね、組み換えられ、画面を味わい深く彩ります。

 

 例えば冒頭、少年たちは川への飛び込みに夢中です。非日常のエクスタシー目がけて、日常からの脱出が企てられているわけです。落下と浸水は、未だ他愛ない遊戯でしかありません。ところが、次第にきな臭い気配を纏い始めます。

 

 いじめられているにも拘らず、西宮は自分こそ迷惑な存在だと自責の念を抱えています。そこで「ごめんなさい」と石田に向って筆談すると、かえって不興を買い、ノートを池へ放られてしまいます。それを拾いに西宮が黙って入水するや、にわかにカットが飛び、同じ池で尻餅をつく石田がずぶ濡れになっています。当惑の避け難いモンタージュです。程なく、いじめを糾弾された成れの果てだと判明はしますが。とまれ、落下はクラスからあぶれた結果であり、浸水は孤立の証へと一変しています。

 かたや時間の圧縮は、否応なく二人をうち重ね、彼らの符合を強く印象づけます。双方、加害者と被害者の自覚を合わせもち、父を欠く家庭で育つなど。おまけに愛称までともに「ショーちゃん」です。

 

 つまり、落下と浸水は、孤立ばかりかスティグマの共有による連帯の可能性すら匂わせるのです。就中、水浸しになる経験は、体感を通して言葉を越える交感へ彼らを導きます。本作において、深い関わりが生まれるのは、決まって川へ身投げするか、雨に降られてずぶ濡れになるシーンばかりです。

 結絃と傘越しに対話する、石田の主観ショットは秀逸でした。画面上半分を傘が塞ぎ、微動するたび、合わせづらい互いの視線が暗示されます。わずかに覗く結絃の足もとが、面をあげられない心情を痛切に訴えます。そして、傘の傾ぎ具合は、雨に打たれる二人を思い起こさせ、芯から冷えるような感覚を生みだしていました。

 

 そういえば、一人称のナラティブゆえか、いつにも増して主観ショットに力が注がれています。人間不信の石田は、いつも伏し目がちです。必然的に足もとを俯瞰するカットが増えます。もとより、脚の演技には定評のある監督ですが、今回は新たに、床に反射する上半身も含めて演出をつけていました。

 あと、逆光の相手を仰ぎ見るショット。姿を見定め難い眩しさに、意思疎通のもどかしさが重ねられます。フレアやゴースト、それにアイレベルの低さも相俟って、子どもの目線らしい瑞々しさが漲っていました。手話の通じない石田相手に「友だちになって」と胸元で手を結ぶ西宮。あるいは、やはり彼女が、たった一度きり取っ組み合うシーン。ともに、炸裂する光に抗うかのようなシルエットが悲痛でした。

 

 ほかにも、レンズの歪曲や色の収差による演出がますます洗練されてたり(『響け!ユーフォニアム』(2015)以来顕著な傾向)。登下校時の上手と下手の逆張り。楽曲とノイズ、無音の配分など見所ありすぎです。

 そうそう、画面の端っこでちょこまかする姪っこのマリアと、それを気遣う将也とか。あちらこちら細やかな配慮が行き届いていて、つくづく痛み入ってしまいます。

 

 とりあえず、この辺で。。もう一回ぐらい見に行けたらなぁ。

 

2016.10.8 追記

 「大ヒット御礼舞台挨拶」の告知が!10/22(土)MOVIX利府仙台に、それぞれ10:30、12:05の回上映終了後。

 監督が仙台にもいらっしゃるのに、、残念!!仕事で伺えません。とほほー!

 

 あ、『君の名は』(新海誠 監督、2016)も見てきたのでした。こちらもすごく楽しかったです。ただ、ちょっと心残りがあったとすれば、風習の設定や組紐の伏線など、後づけっぽい薄っぺらさでしょうか(あと、頻出してた、開け閉めされる襖のローアップ、あれも何なんだろう?)。本来ならそれも含めて、セカイ系たる新海さんの持ち味のはずですが、今回は村という社会や実質的な恋愛、つまりリアルっぽい現実が描かれているせいか、悪目立ちしてた気がしてなりません。。

 

 

 ぐっときたのは、ヒロインの三葉が東京へ出向いて、主人公の瀧と電車で出会う矢先にすれ違ってしまうシーン。時間差という趣向がとびきり効いていました。三葉の失意と瀧にとっての予兆が、否応ない時間の流れ(電車の直進)のもと束の間おなじ空間(車両)において交差します。

 

 今年は劇場アニメの当たり年。あともう1本大物が控えています。『この世界の片隅に』(片渕須直 監督、こうの史代 原作)です。11月12日公開予定らしく、今からそわそわ落ち着けません。

 たのしみ。。

 

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  • 2017.11.23 Thursday
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