『リズと青い鳥』について(前編)

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:06

 本題前にお知らせをふたつ。

 

 1ヵ月余りにわたって開催した三人展「本当に思い出せなくなる前に」が、お陰さまでおととい無事に終了いたしました。

 ご覧下さった方々にあらためて感謝を。ありがとうございました!

 そして、作家さん方にもお礼と労いを。おつかれさまでした!

 久しぶりに店内を目いっぱい使った展示だったせいもあり、会期中はいつにもまして愉しく過ごさせて頂いたのでした。。

 

 それから、、佐藤ジュンコさんがまたまたまんがを上梓なさいましたー。

 仙台を中心に、彼女が食べ歩き散らかしてきたドキュメントです。

 弊店もちょこっと登場します。

 店頭で販売してますので、よかったらお手にとってご覧くださいまし〜。

 

『佐藤ジュンコのおなか福福日記』ミシマ社、2018)¥1,500+税

 

 閑話休題。

 

 予告どおり映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想をまとめておきたいと思います。

 最後に観てからもう1ヵ月も経っのに、鳥がまだ頭の周りをぐるぐる旋回しています。やばいです。。

 

 やや長くなったので、2回にわけて掲載します。

 なお後編はこちら

 

 本作は仙台でもまだロングラン中みたい。MOVIX仙台です。おすすめですー!

***

 

 0 はじめに

 

 

 ある高校の吹奏楽部を舞台にしたテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』(2015-16放送)という群像劇のスピンオフ作品です。物語の時系列としてはテレビシリーズの延長にあたりますが、監督もキャラデザも刷新されておよそ独立した作品に仕上がっています。

 テレビシリーズでは巧みな構成と細やかなキャラクター設定が駆使され、複雑な人間関係が編まれていました。しかも部員らの相当微妙な内面にまで踏み込みながら、決して物語を停滞させることがありません。コンクールへ直進する推力を支えに、数多のサブプロットを語り切るのです。いくつもの支流を抱えては奔流する大河のような作品でした。

 一方『リズ鳥』はというと、さしずめ水たまりのように小さく狭い間柄に的を絞ります。数十名いる部員のうちたった二人の、本来なら端役に過ぎなかった少女どうしの交友です。そのうえ筋肉のわずかな強ばりや目許のかすかな震えなど、より一層ディテールへ寄り添うのです。明快なフルショットの手合いは極力避けられます。遠目には凪いで見えるやりとりの端々に、小波のような感情の揺らぎが炙り出されます。その多様なニュアンスを丹念に積み上げてゆき、絶妙に移ろう関係性を階調豊かに浮かび上がらせるのです。

 ともあれシナリオの比重が大きかったテレビシリーズからは一転し、『リズ鳥』ではディテールの描写(音や台詞の間合いも含めて)とそのモンタージュへ力点を移すのです。これはナレーションの撤廃にも顕著です。テレビシリーズでは、主人公久美子による回想口調が物語にサスペンス調の安定したパースペクティブを開いていました。ところが、モノローグの類いを一掃する『リズ鳥』には見通しよい観点がありません。あまつさえ少女らは口数が少ない。内気なみぞれはいうに及ばず、快活な希美も気風よいが故に余計なことを口にしません。俄然ショット一つひとつが際立ち、画面への注視が促されます。

 もとより、ディテールの作画はテレビシリーズでも急所のひとつでした。まして山田監督といえばちょっとした仕草、わけても足の演技の手練です。ただ従来まではいくら優れた演出だろうと、あくまでシーンに厚みをつけ足す手段でしかありませんでした。それが『リズ鳥』では、断片であるそのこと自体が主題のアレゴリーたりえています。

 ひとつには才能や佇まいなどキャラクターの一面に過ぎないまさに断片が、相手を翻弄する重要な役を担っているからです。けれどそのためばかりでなく、そもそも彼女らじしんが相互理解も叶わずめいめい断片に留まるほかない存在だからでもあります。理解しあうことのないまま、それでもなお新たに関係を紡いでゆく姿を示して作品は幕を閉じます。断片たることは、否応なく孤絶を意味すると同時に関係を結ぶ条件でもあるわけです(★1)。いうまでもなくこれは、映画そのものにおけるカットとモンタージュの謂であり、なおかつそれらを懸命に追う観者の含みでもあります。

 本作の要がディテールにあることは疑う余地がありません。さりとて、単にその精妙さを愛でるだけでは片手落ちを免れません。美しさに見とれて、断片がもつポテンシャルを遺棄してしまうなんてあまりに惜しい。その過剰さは美の予定調和に収めきれるものでは到底ないはずです。

 以上を踏まえたうえで、これからはあえて愚直にシナリオを追ってゆくことにします。まずは主題上の断片性を確認しておくに如くはないでしょうから。もとより、あまりにディテールが豊か過ぎてアプローチを絞るのに難儀だからでもありますが。。

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

 

1 冒頭と結末のコントラスト

 

 本編の幕は、みぞれと希美の登校するシーンによって上がります(★2)。そして幾日かの練習風景を跨いだ後、やはり彼女らが下校するさなか下ろされます。数週間にわたると思われる経過が、まるで一日の顛末さながらに構成されています。ミニマムに仮構された時空は余計なものごとのつけいる隙を断ち、移ろいゆく二人の軌跡を鋭く浮き彫りにします。冒頭と結末がなすコントラストは、その推移をひときわ鮮やかに示してくれます。

 かたや、早朝に校門で待ち受けるているのはみぞれです。遅れて希美が合流し音楽室へ向かいます。他方、放課後の校門には希美が控えています。本編を挟んで二人の位置が反転するのです。いったい何があったのでしょうか。

 歩調は相変わらずです。何時いかなるときも希美が颯爽と先陣を切り、みぞれが頼りなげに遅れをとります。会話のちぐはぐさも本編の前後で大差ありません。二人の個性は終始変わらぬままです。

 カメラワークから察するに、変化が窺えるのは二人の関係です。冒頭で著しかったのは、希美の一挙手一投足に目を奪われるみぞれの主観ショットでした。対して結末を飾るのは、歩行中の二人を初めて正面から押さえたバストショットです。望遠レンズの圧縮効果によって手前と奥が詰められ、二人を画面に斉しく収めます。

 当初一方的に過ぎた執着が本編を経て氷解し、対等な友情に立ち至れたかのような赴きです。おまけにカメラが校外へ踏みだすシーンはこれを措いておよそ皆無であり、開放感がいやまし強調されています。

 

 

2 関係の交換可能性

 

 関係に変化が生じた発端は『リズと青い鳥』という絵本です。リズという孤独な少女のもとへ、彼女を案じた鳥が女の子に化けて現れるという筋書きです。

 これに取材した同名の楽曲が、来るコンクールの自由曲に選ばれます。そして目玉の第三楽章では、二人のソロが懸け合うことになるのです。しかも語られる内容が、彼女らの因縁とあまりに重なり、絵本は少女らを写す鏡の役を担いだします。

 当初は過去と性格に符合することから、何ら疑いなくみぞれがリズに、希美が鳥に自らを投影していました。

 というのも内気で孤立していたかつてのみぞれに、思いがけず声をかけてくれたのが希美だったからです。入部の勧誘に過ぎなかったはずのこの一件は、しかしみぞれにとっては恩寵にほかなりませんでした。爾来、希美はみぞれの「全て」になります。

 ところが、中盤を過ぎるなり投影先が覆ります。こんどは現状と能力に照らして、みぞれが鳥を、希美がリズを再発見するのです。

 絵本の佳境では、リズが未練を押し殺して鳥に旅立ちを迫ります。というのも一緒に暮らす幸せが、その想いとは裏腹に鳥を地上に縛りつけることにしかならないと悟ったからです。

 希美の喪失を何より恐れるみぞれには、これが受け容れられません。リズの理解に躓くみぞれは、演奏すらままならなくなります。そこで見かねた教員が、視点の転換を促します。するとリズとの同一化を弛めた途端、みぞれはたちまち事態の明察に達します。リズの提案は、鳥にとってもきっと堪えがたかったはず。けれどリズが願うのなら、それに応えることこそ愛に報いることなのではないか。鳥が涙をのんで決意する、その胸中をしっかり汲みとるのです。

 かたや希美はというと、次第にみぞれに対するわだかまりを隠しきれなくなります。みぞれに期待を寄せる教員が決定的でした(★3)。みぞれには音大を手厚く勧める一方、希美には人並みな対応しかしてくれないのです。これを機に今までは無自覚だったものの、ずっと複雑な澱を溜め込んでいたことが痛感されます。羨望に嫉妬、屈辱感。相手に執着していたのは自分の方ではないか。リズの姿が他人事ではなくなります。なぜなら、実際に別れを切りだす前のリズも鳥に執心するあまり葛藤を抱えこんでいたからです。

 二人はともに、新たな視点を手に入れ認識を改めます。さりとて、現実に何かを為し遂げたわけでは無論ありません。ただ観念的に関係を相対化できたに過ぎません。

 そもそもみぞれの場合、鳥の気持ちはさておきリズについては単に黙殺しただけです。それどころか自分の判断を相手に委ねている点からして、希美に依存する体質は変わらぬままです。

 希美も同様に、才能の格差を身にしみて思い知ったわけではありません。まして、克服なんてしようがありません。

 それに、以前の視点が無効になる謂れも殊更ありません。認識の上だけでなら、視点の転換は難なくこなせます。要は、みぞれも希美も互いにリズでありかつ鳥でもありうるのです(★4)。肝心なのは正しい自己像を探し当てて確定することではなく、確定的に思われた自己が他でもありうるという可能性です。この有余が、やり直しの利かない現実を受けとめる素地を整えます。

 ちなみに、もし有余なしに現実と直面する羽目になったとしたら、相応のリスクを伴うはずです。例えばテレビシリーズでは、希美がみぞれの前から忽然と姿を消した結果みぞれはノイローゼに陥ってしまったのでした。(つづく)

 

 

【注】

 

1

 本編の冒頭と結末にはぞれぞれ「disjoint」と「disjoint」という単語が、カリグラフィー(所謂シネカリ)風にアニメイトして挿入されています。「disjoint」とは授業のシーンでもさりげなく触れられる通り「互いに素」の意味です。おそらく含意として「ばらばらになる」などが込められていそうです。接頭辞が掻き消される後者であれば「つながる」でしょうか。いずれにしろ「断片」の境位そのものを示していると考えられます。

 

 ちなみに、カリグラフィーの技法といえばノーマン・マクラレンの『線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)がよく参照されます。当該箇所もご多分にもれず、まず間違いなく彼へのオマージュです。なにしろ『即興詩』のモチーフからして赤と青の二羽の鳥なのですから(厳密には赤と緑。補色対比のためかと考えられる)。拙文では後に論じるとおり『リズ鳥』もまた青い鳥と赤い少女の物語なのです。

 

 

左から線と色の即興詩(Blinkity Blank)』(1955)、『隣人(Neighbours)』(1952)

 

 じつは山田さんの前々作『たまこラブストーリー』(2014)のエンディングもやはりマクラレンの『隣人(Neighbours)』(1952)を換骨奪胎したパロディになっていました。後者は冷戦下における米ソの対立わけても朝鮮半島の情勢を、ピクシレーションを駆使した滑稽なモーションによってブラックユーモアに仕立てた作品です。彼女はこれを、ライバル店どうしの子どもたちが繰り広げる恋物語に転用するのです。『隣人』でお隣との媒介役を果たしていた花が、『たまこ』では林檎へ置き換えられてさらにフェイクとリアルの2種に分裂させられます。

 ともあれ、山田さんがマクラレンなりNFB(カナダ国立映画制作庁)、もしくは実験アニメーションの系譜に相応の関心をお持ちなのは作品からひしひしと伝わってきます。それと日本の所謂アニメとの関連をどんな風に捉えていらっしゃるのか興味が尽きません。

 

2

 本作は直ちには本編へ入らず、作中絵本の導入部から始まります。ある少女が動物たちにパンを分け与えているところへ、青い鳥が舞いおりてはすぐさま飛び立ちます。彼らにとっては初めての出会いです。これはみぞれと希美の起源を象徴するとともに、直後に継がれる本編冒頭の雛形にもなっています。鳥を見上げる少女の仕草も含め、本編でもう一度反復されるのです。みぞれの待つ校門に希美が落ちあい、然るのち希美の拾い上げた青い羽根をみぞれが見上げます。作中鍵となる図式への巧みな誘導が見てとれます。不動の(待つ)存在=見上げる=リズ=みぞれ/動く(訪れては去る)存在=見られる=鳥=希美。

 

 本編自体の滑りだしは、歩くみぞれのローファーを真横から追う長回しです。まさに「断片」によって幕が開きます。そしてカットをいくつか挟み、おもむろに希美の靴音と劇判が絡み合いだしては束の間のミュージカルが浮かび上がります。歩調の映画であることがはっきり印象づけられるシーンです。

 

 ところで同じ歩行をモチーフにしたアニメに、ライアン・ラーキンの『Walking』(1968)があります。作画と音作りを擦りあわせながら同時に進行した点でも符合します。ところが歩行そのものの捉え方は対蹠的です。

 

『Walking』(1968)

 

 序盤しばらくは立ったままの雑沓が大半を占め、カットバックで彼らの視線の先に歩行者がひとり示されます。ベランダから俯瞰された大写しの全身像です。パースに沿って視線が自ずと足もとへ向かいます。さりとてこの後も足を強調こそすれ、「断片」として切りだすことはまずありません。あくまで全身運動として描かれます。

 加えて不調和なリズムが前景化することもありません。次第にアングルを変えながらペースの様々な歩行者が画面を駆け巡ります。けれど構図が的確なせいか、リズムの差異が全体へ溶けこんで見えるのです。強いていうなら、ラーキンは数多の通行人を観察しては消化して一つの合奏に仕立てています。それに引き換え『リズ鳥』の照準は、歩行の不調和へ向けられています。

 

 あるいは足を主題化したアニメといえば、新海誠さんの『言の葉の庭』(2013)が記憶にも新しいでしょうか。男子高校生と女性教師が互いに「自分の足で歩けるようになる」までの、要は自立するまでのお話です。逆にいうと「歩けるようになる」以前の顛末なので、そもそも歩行中のカットが少ないうえに並んで歩くシーンさえなかった気がします。

 

『言の葉の庭』(2013)

 

 さりとて貴重な足もとのショットを顧みるにつけ、水溜りを踏んだり光が射したり環境を反映する役を割り振られていたのが印象的です。もしくは佳境で足のサイズを測ったり、裸足のまま駆け出したりします。いずれにしろシーンの下支えに徹するのです。かたや『リズ鳥』の場合は下支えもちゃんと果たすとはいえ、それにもまして歩行そのものが「断片」として突出してきます。

 これに限らず、新海さんと山田さんはあらゆる点において対称的です。前者は広角レンズで目いっぱい光を取りこんでコントラストを強調します。キャラクターの心情なり境遇を広大な風景に託すためです。

 対して後者は望遠レンズで若干アンダー気味にしっとりした絵作りを心がけます。静かな風景と動くキャラクターに絶妙な間を保ち、相対的に風景を自立させるのです。なおかつ画角の狭さはキャラクターの視野の狭さに重ねられます。または疑似ドキュメンタリーのようなあざとさは避けながら、視野をふわふわ揺らせたりもします。

 

3

 教員の件とは別に、希美を揺さぶるサブプロットがもうひとつ描かれています。みぞれとその後輩による交流です。休日に遊ぼうと希美がみぞれを誘うシーンが2回あり、そのつど他に呼びたい人がいるか確認します。最初はいないと返答したみぞれが、次の機会には後輩も誘いたいと申しでるのです。

 希美を正面から逆光気味に押さえるショットに、画面外から当の申告が被せられます。不意に画面手前を他の生徒が横切り、希美の姿が一瞬隠されてすぐ現れます。すると屈託なかったはずの表情に微妙なニュアンスが差しているのです。みぞれに対する保護意識なのか独占欲なのか、いずれにしろ無意識の出し抜けな漏洩が澱の存在をはっきり告げ知らせてくれます。

 

 ところで、山田さんは割合ジャンプカットを多用しますが、カットを繋ぐ素朴なモンタージュにはよらず、今回のように一連の演技として成立させるのは初めてのような気がします。周囲が変わらないなか希美の心境だけが急変するシーンなので、風景の連続性と心境の不連続を両立させるための工夫なのでしょう。かりに素朴なジャンプカットを採用していたなら、後者ばかりが迫りだし前者が犠牲となって事前と事後の比較に過ぎない薄っぺらな書き割りにしかならなかったのではないでしょうか。連続する風景こそが急変する心境の孤絶を際立たせ、重みのある表現を結実させています。

 

 ちなみに、みぞれと後輩のサブプロットは希美を動揺させる返す刀で、メインプロットの二人をも照らしだします。というのもみぞれの無愛想にもめげず健気にアプローチを繰り返す後輩の姿は、とりもなおさず希美への叶わぬ想いを秘めるみぞれ自身にほかならないからです。やがて親しくなった暁に二人きりでオーボエを奏でる光景は、みぞれが思い描く希美との理想像にほかなりません。そのうえ次第に深まる後輩との絆は、図らずも新たな人間関係を形成する雛形にもなっています。自立の助走さえ兼ねているのです。

 特筆すべきは、あるサブプロットがメインプロットへ絡んでゆく経路の重層具合です。この手のサブプロットがいくつも仕組まれています。図書室でのやりとりや部長と副部長のかけ合い、あるいは絵本の少女と鳥等々。どれもシーンの密度が異常に高いのです。

 

4

 交換可能性の暗示は、じつは既に冒頭からディテールのそこかしこに鏤められていました。

 先述した青い羽根は拾われるなりすぐさまみぞれに渡り、以後ずっと彼女が携えることになります。かたや絵本では、リズが髪飾りにと鳥に赤い木の実を挿してやります。すなわち、与える者=希美=リズ/与えられる者=みぞれ=鳥という図式が浮かぶのです。そもそも担当パートからして希美のフルート=リズ/みぞれのオーボエ=鳥です。

 それなのに、作中の二人が逸早く感情移入する先は逆さまでした。希美=鳥/みぞれ=リズという具合に。

 

 もしくは色の象徴系によれば、現実と絵本の照応のみならずリズと鳥、そしてみぞれと希美の取り替えすら仄めかされます。青い鳥に赤い木の実を挿すというのは、端的にリズの赤と鳥の青の混在を意味します。というのもリズが赤いスカートを穿いているからです。あるいは青い羽根を所有するみぞれが赤茶の瞳なのに対して、希美は赤い腕時計を身につけており瞳は青みを帯びています。

 さらに終盤になるとよりいっそう露骨なイメージカットが現れます。画面中央に水気を含んだ赤と青が打たれ、次第にじわじわ浸透しあうのです。

 要所に登場するデカルコマニーのイメージカットもこの系列に連ねられるでしょうか。インクを垂らした紙を一度折り、左右対称な鳥の模様を生みだします。これが羽ばたくようにアニメイトされるのです。一羽の中に左右二つのイメージが折りたたまれているわけです。力加減によって生じる微妙な対称性の崩れが効果を上げています。

 左右反転といえば、二人の転機に決まって挿入されるパラレルモンタージュ(正確にはクロスカッティングとマルチスクリーンの合わせ技)も忘れられません。場所を違えた少女らを同時並行で対照しながら描くのです。しかも転機が訪れるのは2回きりなので、この手法を使ったシーン自体がデカルコマニーさながらの対称的な構成に仕立てられていました(この徹底のありようったら。。)。

 なお最後のパラレルモンタージュには、左右に揺れるみぞれの長い髪がそっと挟まれていました。たぶん本編中唯一のカットです。

 本来なら、振り子状のモーションは快活な希美にこそ似つかわしいはずです。例えば冒頭ではみぞれの主観ショットが、希美の弾むポニーテールへ引きこまれるように食い入っていました。かたやみぞれはというと、髪も含め全身が膨張したり萎縮する漸次的なモーションによって特徴づけられます。そんな彼女が二つの転機を越え自立に向かうまさにそのさなかの歩行シーンで、希美の快活さが乗り移ったかのようなモーションを見せるのです。あまりにさり気ないカットですが、二人の交換可能性を如実に示しています(不意をつかれてほろっとしてしまいした)。  

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  • 2019.01.23 Wednesday
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