『リズと青い鳥』について(後編)+ 2018.6.7 追記

  • 2018.06.02 Saturday
  • 16:49

 本題前にまたもお知らせをひとつ。

 

 仙台発の月刊誌『りらく』の今6月号で弊店を取り上げて頂きましたー。特集「本の世界に遊ぶ 雨の日は図書館、ブックカフェへ」のページです。

 取材して下さった記者さん方に感謝です。ありがとうございました!

 

『りらく』第20巻11号(りらく編集部、プランニング・オフィス社、2018.5)

 

 閑話休題。

 

 映画『リズと青い鳥』(山田尚子 監督、京都アニメーション、2018)の感想、その後編です。

 これで完結します。

 なお前編はこちら

 

 仙台ではMOVIX仙台でロングラン中のようです。おすすめ、、というかぜひ色んな方に見てほしいなぁ。

 先々にはきっと山田監督の代表作になってゆくだろうと思います。けれどそれにもましてアニメなり映画の歴史に何らかの足跡を残さずには済まさないんじゃないかしら、そう思わせられるくらいに傑作です。観ておいて損することはまずないはずです。

 

* 2018.6.7追記

 時おり愉しく拝見している千葉雅也さんのtwitterで、とても共感するご発言に出くわしました。拙文を書いている間ずっと感じていた問題意識がズバッと明晰に語られていたので、うぉっとつい唸ってしまいました。。

 

 例えば、、「解釈」の機能しないこの世界において「虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるか」。つまり、相互理解そのものはおろか、その不可能性さえもがもはや問題たりえない現代において、それでもなお関係を紡ぎうるとしたらどんな形がありうるのか。『リズ鳥』がその回答のひとつを示しているように思われたわけです。

 蛇足ながら、、たぶん土居伸彰さんが「私たち」という、理論的にはかなり緩い言葉でフォーカスしようとしている問題(特にご著書である『21世紀のアニメーションがわかる本』で説かれている)もこの辺りにあるのだろうと踏んでいるのですが、どうでしょうか。。

 

 せっかくなので、一連のtweetを引かせて頂きます。

 それはそうと、どうやら千葉さん新著をご準備なさっているようです。今後のお仕事がますます愉しみになりました。

 

 ポスト・トゥルースとは、一つの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えば、別の世界同士の争いだ。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。他者はすべて、別世界の住人である。(2018.6.5)

 

 ポスト・トゥルースとは、真理がわからなくなってしまった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりである。そうなると、バラバラの事実がぶつかり合うことになる。(同上)

 

 マルクス・ガブリエルの新しい実在論はおそらくこの状況を言っている。僕はガブリエル評価を改めようと思う。(同上)

 

 付言すれば、ドゥルーズ『意味の論理学』で言う深層とは、ポスト・トゥルースの状況だろう。(同上)

 

 階級闘争とは、世界の解釈の争いではない。異なる事実と事実の争いである。(同上)

 

 そうか、ドゥルーズ&ガタリの精神分析批判って、解釈をやめろ、ということなんだ。それはポスト・トゥルース化に他ならない。異なる諸事実が並立する状態に入ること。それが「分裂分析」なのか。(2018.6.6)

 

 そしてサントーム論に向かったラカン(松本卓也さんが紹介するような)も、ドゥルーズ&ガタリと同じくポスト・トゥルース的人間について考えたのだ、ということになる。(同上)

 

 『ラカニアン・レフト』が不満なのは、様々な政治闘争を接続する虚のトポスを活用しようという話になってるからで、それってファリックじゃないかという疑問を持つ。他の享楽側へと行ったら、諸々の闘争はバラバラになるはずで、それらを虚のトポスなしでどうコミュニケートさせるかが問題なはず。(同上)

 

 

***

 

『リズと青い鳥』(2018)

 

(承前)

 

3 斜交う誤配

 

 明察を得たみぞれは、全体練習の場で才能を遺憾なく爆発させます。ソロパートを圧倒的な表現力で奏でるのです。彼女なりに希美との相性を立証するための熱演でもありました。ところが、皮肉にも希美に対しては実力の差を突きつける結果を招きます。打ち拉がれる希美は途中で投げ出すわけにもゆかず、みぞれの音に追いすがるのが精一杯です。やっとの思いで吹き終えても、人目を忍んで席を外してしまいます。

 生物室 (★5) まで追いかけてきたみぞれが声をかけようとすると、希美は泣き腫らした目許を取り繕うかのように言い放ちます。「みぞれはずるいよ」。劣等感や虚栄心、憧憬など鬱積する本音が堰を切って捲し立てられます。

 みぞれももどかしさのあまり声を荒げずにいられません。吹奏楽部へ誘ってくれた事の始めにまで遡りながら、募る想いの丈を吐露します。楽器を続ける理由さえ、希美と一緒にいるためでしかないと言って退けるのです。挙げ句希美の胸へ飛び込むなり、畳みかけるように相手の「好き」な点を数え上げます。足音や髪、話し方、それから皆と仲良くできるところ等々。

 それに引き換え、希美は自分が勧誘したことすらよく覚えていません。あまつさえみぞれの抛る訴えは、どれ一つとして希美の琴線には触れません。クローズアップされた希美の瞳は、抱きつくみぞれの頭越しをただ虚ろに見つめるばかりです。さりとて耳に届いていないわけでもなく、間違いなく意識を傾けています。みぞれの言葉に応じて瞳が小刻みに震えるからです。

 なぜ希美の心が動かないのか。みぞれを宥めた後、ぽつりと洩らされる返答に一切が凝縮しています。「みぞれのオーボエが好き」。

 

 顧みればパート練習で場所を違えていても、みぞれの音が画面外から鳴るたびに必ず希美は耳を傾けていました。彼女は演奏そのものに惚れていたのです。だから逆にその敬慕する奏者から聞き出したかったのは、自分の音を認めてくれる証しだったに違いありません。「希美のフルートが好き」と。それなのに、みぞれが乱れ撃った数多の「好き」の中にはついに含まれていませんでした。希美にとっていわば無能宣告にほかなりません。先の実演に続き、みぞれは図らずもだめ押しを加えてしまった恰好になります。

 他方みぞれにとってもいわずもがな、希美の返答は必ずしもかけてほしかった言葉ではありません。むしろ正反対を意味します。希美は畢竟、みぞれ自身が望むようには丸ごと求めてくれるわけではないのですから。

 二人の「好き」は絶望的なまでにすれ違い、伝えたかった真意は互いに何ひとつ届きません。けれど一連のやりとりは、彼女らの思惑から外れて予想外の宛先を切り拓きます。

 

 まず希美が一方的に話を打ち切り、お茶を濁すように独り廊下へ駆け出します。すると歩いているうちに、初めてみぞれに呼びかけたときの情景が甦ってきます (★6) 。そして、何ごとかを仕切り直すかのように深く長い吐息をつくのです。上達したみぞれに気をとられるあまり、楽器を吹いていなかった素の彼女を忘れていたのでしょうか。それに気づきあたかも初心に返れたかのようなモンタージュです。一から関係を再構築してゆこうと、吹っ切れたような表情を見せてシーンが変わります。幕切れには「みぞれのオーボエを支えるから」と宣言することにもなります。

 みぞれも最終的には、たとえ独り音大へ進学してもオーボエを続けると断言します。オーボエは当初、希美と離れないためにこそ必要とされていました。それがかえって、希美から自立するための媒介を担い始めるのです。希美が「全て」だったかつてのみぞれは、さしずめ母子未分化な赤ん坊のような存在でした (★7) 。オーボエはさながら、乳房のように母たる希美と分かちがたい閉域を作っていました。そこへ例の希美の一言が亀裂をもたらしたのです。みぞれは言外の含みを汲みとれないまま、字義通りに受けとります。希美が「好き」なのは私の吹く楽器であって私ではない。つまり私は希美と一つになれないし、オーボエと希美は一緒くたにはできないのだと。オーボエは希美の手から離れ、その価値は彼女が示唆を与えたものという象徴的な意味合いへ切り下げられます (★8) 。反面オーボエそのものがもつポテンシャルを開示することにも繋がります。希美との今ここに呪縛されていたみぞれの時間が、オーボエの放たれた未来へと動き出すのです。

 

 交わされた言葉は話し手の意図から逸れて、別の何ごとかを聞き手に届けてしまいます。そして実は聞き手もまた、自分が受けとった何ごとかを未だ明晰には呑み込めていません。初対面の記憶やオーボエの存在は、未規定なまま単に突出しているだけです。それにも拘らず、彼女らは触発されるがまま踏みだします。意味の理解を差しおいて、言葉の働きかけに身を開くのです。たとえボタンを掛け違っていてもかえってそこから生まれる別の作用を尊重し、いっそ未来への布石に転じてしまうこと。

 もし意味に囚われていたなら、何もかもが従来の執心へ回収されてしまい、関係は泥沼化するほかなかったに違いありません。リズの理解に苦しみ、手詰まりに陥っていたみぞれの姿が思い起こされます。しかし二人は既に、視点の転換を通して事態を相対化する経験を積んでいます。既定の意味に拘る謂れはもはやありません。膠着していた関係が定かならぬ未来へ向けて解きほぐれてゆきます。おそらく初めて彼女らは、過去に縛られることなく相手を自由な個として見出だします。先述しておいた最後のツーショットはその成果を讃えて余りあるでしょう。

 さりとてみぞれにとって希美が特別であることは依然変わりませんし、希美にしてもそれに応えられるよう趣味嗜好が変わったわけではありません。まして「特別」の意味を心から理解できる余地はまずなさそうです。彼女らはきっと、まかり間違っても愛の成就なり破局など意味を共有しうる間柄には至らないでしょう。ちぐはぐな応酬を繰り返しては誤配を重ね、斜交う関係をどこまでも続けてゆくのではないでしょうか。全一とは無縁な絶対的な断片なのです (★9) (了)

 

 

【注】

 

 5

 人づきあいの不得手なみぞれにとって、生物室は独り静かに佇める聖域です。飼育されているフグによく餌をやるシーンは、人里離れて動物を餌づけするリズの森さえ彷彿とさせます。けれど他方では、心地よいからこそ閉じ籠ったままの現状を招いてもいます。無自覚ながら自由が封じられているのです。生物室はまるで鳥にとっての籠さながらです。

 いうまでもなくこの両義性は、みぞれが抱えこむダブルバインドのメタファーです。希美に執着するあまり彼女との関係、そして演奏さえも膠着させてしまうのですから。ゆえに、みぞれの転機は決まってこの特権的なトポスと連関して生じます。

 ひとつめは「視点の転換」です。くだんの教員がここを探し当ててくれたお陰で起こりえました。彼女は本編中初めての生物室への侵入者でもあります。

 もうひとつはこれから拙文で論じることになる、籠の解錠に相当する出来事です。希美と繰り広げる応酬が、やがてみぞれの自立を帰結します。じつは、希美が生物室を訪ねたのもこれが初めてです。かねてフグに餌をやってみたいと調子を合わせていた割に、その後一向に素振りすら見せなかった彼女だけに事の重大さは推して知るべしです。

 

 なお、籠のメタファーが当てはまるのは、あながち生物室だけではありません。音楽室や普段づかいの教室それから廊下も含めて、学校全体がさも鳥籠であるかのように演出が凝らされています。というのもサッシがグリッドに仕切る向こう側を、あまりにも頻繁に鳥たちが飛び回るからです。明るい外を自在に滑空する鳥は、薄暗い屋内の閉鎖性を逆照射します。校舎を覆うサッシはあたかも籠の網の目です。

 学校という特殊な閉域がまざまざと縁どられることで、かえってその外部が痛切に意識させられます。生徒らの行く末です。遅かれ早かれ旅立たねばならないものの、杳として見透しの利かない未来が本作の裏側に貼り付いています。

 

 ところで、結末を除きただ一度きりカメラが校外へはみだすシーンがあります。みぞれに張り合ってつい音大受験を宣言してしまった希美が、逡巡しはじめる矢先のことです。夕暮れに彼女は独り小高い丘へ赴き、町を一望するのです。後ろ姿を引きで抜くカメラはそこが東屋(すなわち籠です)であることを明かします。

 校舎を抜け出てもなお希美は籠の中の鳥でしかありません。彼女固有の痛ましさが滲みでているシーンです。なぜなら、希美の逃げ場が学校のどこにも存在しない事実を露呈しているからです。ひょっとしたら生物室を保険にもつみぞれの方が、むしろ恵まれているとさえ言えるかもしれません。

 希美は人づきあいをそつなくこなしているかに見えて、実は素顔を曝せない質なのです。みぞれに対するわだかまりを鬱積させていた希美の姿が偲ばれます。

 

6

 このシーンは色を飛ばして、現実の絵柄と差別化されています。かたや冒頭のみぞれによる同じ過去の想起でも、やはり明度が高めに設定されていました。しかしタッチが異なります。先行のフラッシュバックでは絵本の朗読とモンタージュされていたせいか、よりファンタジー寄りにデフォルメされていました。もしかしたら、みぞれの方が思い出に夢を抱いていることの証左なのかもしれません。おまけに台詞も若干違います。希美の記憶では「帰宅部」という露骨な表現が飛び出します。

 

7

 みぞれの幼児性はしきりと髪に触れる習癖によく表れています。何かしら感情が動くときだけでなく、手持ち無沙汰の折にも決まって髪を手で撫でるように梳きます。

 興味深いのは、はじめて希美に声を荒げる際には髪ではなくスカートを両手で強く握っていた点です。強いていえば幼児性からの離脱、少なくとも何らかの異変が見てとれます。

 

 もう一点、冒頭で校門から音楽室へ向かう途中、先をゆく希美が下駄箱の角にすっと手を沿わせるカットがあります。後に続くみぞれもさり気なく同じ角に手を沿わせて先を急ぎます。一瞬の仕草とはいえ、希美を慕う気持ちとあわせて接触に偏執する習癖まで仄めかす秀逸な演出でした。

 

8

 ラカン派精神分析の術語でいえば「疎外」と「分離」による二段階の去勢が執行されているわけです。先述した視点の転換はここでの「疎外」の雛形になっていました。そしてオーボエは「対象a」です。その導く先には、より高度に抽象的な音楽の世界とともに業界の道理や秩序さえもが待ち構えているでしょう。

 その伝でいけば、一面ではみぞれは象徴界へ参入し、希美は軽い神経症から癒えたとも言い直せます。しかし肝心なのは、それにも拘らず逸脱を余儀なく繰り返す二人の軌跡です。言葉に別な作用を見出だしては関係を更新し続ける応酬は、精神分析というよりかフェリックス・ガタリの唱えていた「スキゾ分析」に近しいのかもしれません。

 

9

 少女らの絶対的な断片性を「実在的対象」として捉えれば、グレアム・ハーマンの唱える「オブジェクト指向実在論」の絵解きとして見立てられるかもしれません。例えば二人は互いに「脱去」しあっており、絶対に分かりあえない。にも拘らず初対面の記憶やオーボエなど「感覚的対象」を通して魅惑され、間接的に関係(代替因果)を築ける、とか。全然関係ないけれど、ハーマンってアニメを見たりするのかしら。。 

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